老いと死の受け入れ





 最近また戦国策サボりつつありますが(笑)、まあ他の勉強してますので勘弁してください。明日あたり書きます多分。


 老いにつれて人は変化する。
 容貌は衰え、忘れやすくなり、身体は動かせなくなり、感情も短絡的になる。それに比べれば若い頃は容貌も立派で、物覚えも早く、身体は活発に動かせ、我慢や忍耐もできる。感情コントロールができるというわけだ。
 じゃあ老いとこれに伴う変化に意味があるとすれば?恐らくは周りが死を受け入れることに強い関連がある。
 醜くなり、何回言っても忘れて、身体は手を貸してやらねばならない、手を貸してやれば今度は態度が悪い親切さが足りないと怒鳴り散らす。
 最低最悪に一見見えるが、しかし恐らくこれがなければ死に際してのショックのあまりの強さに耐えられるように人はできてはいないのだ。悲しい、苦しい、切ない。そのショックは恐らくその後の人生を引きずり、まともな生活を送ることすらできないようになるかも知れない。死の意味は周囲に対して大きく、本人にとっては別に大したことはない。大したことはないこともないのだが、死が恐ろしいことと死んで周りが悲しむこととは全く別の事態であるといえる。本人にとって死が恐ろしかろうが恐ろしくなかろうが、周りにとってはそんなことは知ったこっちゃないのである。



 八つ当たりされ、怒鳴り散らされ、耐えに耐えた末に死が来る。
 それは死に「解放」の意味合いをもたらす。もしもそれがない、あまりに予想外な死、つまり急死であるとすれば(まあ厳密にいえば全て急死といえば急死だが)、その死には解放の意味合いがない。苦しみはなく耐えることもなかった人生にいきなり死がもたらされる、その衝撃は恐らく人には耐えられるものではない。人はその死をああ死んだのかと受け入れられるようにできてはいない。


 つまり死には近さと遠さとがある。そして近過ぎる死もあるのだ。
 近過ぎる死を恐らく人は耐えられない。だが我慢や忍耐、それによる解放感はその死を和らげる。
 近い死は確かにショックがある、遠い死は恐らく痛くも痒くもない。そしてその遠近のグレーゾーンに大半の人の死は位置させられることになる。



 じゃあ近過ぎる関係だとして、全てをスルーしていたとすれば?迷惑もない、なんかしてやることもない。ほっといて互いにやりたいことだけをする。そうして生きていたとすれば、死は恐らく解放感をもたらさない。
 死は悲しみをもたらすだろう。だがそれは近くもない。かなり遠い死の方に近いと言える。


 人は迷惑からくる我慢や忍耐から、死によって解放感を得る、それはかなり社会的には禁じられた感情だろうが、人は悲しみと同じかそれ以上に、死に直面した際に解放感があることに驚かされるのだ。悲しみというマイナスだけじゃなく、ああ楽になったというプラスもある……解放感がある。でもそれは許されない……だからこそ悲しむ必要がある。
 死は本来悲しまねばならないものだからだ。本来そうであるように我々は装わねばならない。そうできている。


 これを踏まえると、近いけど汚いこと眼を背けたいことからスルーすることはどうなるか。我慢も忍耐もない、もちろんそれによって成りたつ解放感もない。マイナスがなかった代わりに、プラスも得ることが経験されない。人の死が、つまりは生が、本来もたらすだろう意味合いのほとんどが欠損されてしまう。
 でも悲しいと言うことはできるのである。普通の生活を普通に営むことはできる。しかしそれが普通に営むことができるほど得たものが少ないということでもある。死のダメージの大きさを収穫だとするならば、その場合は収穫がない。悲しみもダメージもあるにはある、しかしその総量は間違いなく少なくなる。


 でも果たしてこの便利な時代に、わざわざ死に直面するという経験が必要になるんだろうか。
 めんどくさいことをスルーし、手間なことをスルーし、普通な生活を普通に営む。
それはある意味便利な時代らしい話だといえる。火葬屋や葬儀場に連絡すれば電話一本、後はお金を払えばなんだってやってくれる。なんて便利な時代だろうか。



 ところで、オレの場合10年以上前に犬と散歩しながらあー犬が死んだら散歩もしなくていいとなるとめっちゃ解放感あるんだろうなー、そうしたら時間が浮いてやりたいことやれて、本当に自由になって好き勝手やれるんだろうなー、とか漠然と考えていたし、予想していた。自由。解放感。すごいんじゃないかと。
 ところが犬が死んだ。オレの腕の中で息を引き取った。ぴくぴく、とした後に目を動かすこともなくなった。その時の凄まじい動揺を覚えている。はっきりとうろたえていた。オレは動揺している、とはっきり分かるほどの衝撃があった。手が震えていた。
 犬は死んだ。予想通りに自由になったはずだった。解放されたはずだった。
 ところがそうではなかった。自由という孤独、解放という孤立を感じた。オレが自由になったんじゃない、犬が自由になったのだ、ああ取り残されたのはオレの方だったかと感じた。自由になったのではなく、犬によって自由にさせられてしまった。
 犬につけていた首輪は、今やオレの首にかかっている。オレは決して自由じゃなかった。はっきりと不自由を感じた。自由は奪われてしまった……



 毎日でもないが、散歩したりウンチの世話したりなんかおやつやったりしてたわけだ。でもそれら全ては、飼い主としてどうだったのか?を突きつける結果になった。これがネコなら全然良かった。ああフリーダムに生きて、気ままに昼寝して、メシ食って、けっこう幸せに死んだんだろうなと。ところが犬はそう簡単ではない。間違いなくその重みが全て飼い主に跳ね返ってくる仕組みとなっていた。果たしてお前は本当にいい飼い主だったのか?を突きつけてきたのは犬の側だったのだ。もっとできることはあったんじゃないか、めんどくさいからと散歩に連れてってやらなかったんじゃないのか……犬の死は、それら全てを裁いた。飼っていた15年の全てを裁き切るだけのインパクトがあった。




 でもじゃあそもそも犬を飼っていなかったなら?そもそもこれが書くネタになることもなかっただろう(笑)
 散歩を全回避、ウンチの世話全回避、おやつとか遊ぶとか一切やらないとすれば恐らくこんなことを考えもしなかっただろう。
 ……なんか書くネタ考えるネタとしてしか出てこなくなったから一旦切ろっと(笑)続きあったら別に書きます。




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