孫子を読んで その4 「よく見る」話




 ➄よく見ること


 「よく見る」ことがいかに困難なのかを孫子は説く。
 戦争前には勝ち目がどの程度多いのか、少ないのかを見る。秤にかけてどっちに触れるのかをよく見ようとする。
 戦争で重要なのは補給と兵站の難しさであり、それを維持することがいかに困難なのかを説く。華やかな戦争の裏、その状況を支える縁の下を見る。
 しっかりと兵の手柄に報いて褒美をやることが勝って力を増すことだと見る。
 敵を見る。あるいは味方を見る。
 敵を見て侮ることなく、必要以上に恐れることもない。
 かといって味方を見れば過大に持ち上げることもせず、卑屈に陥りもしない。
 そうして極めて「妥当」なところに見方を落ち着ける。
 これがいかに難しいことかである。



 味方、身内を見ることがいかに難しく困難なことか。ついつい人は身内を「大したことない」と見がちである。隣の芝生は青く見えるし、遠くのものは美しく見える。それに比べて自分の側にあるものはいかにみすぼらしく、大したことがないように見えることか。それを卑屈に見做しても仕方がないとも言える。かと思えば急に欲目が出てきて「うちの子以上に素晴らしいものはない」などと言いだしたりもする。まるで尊大になるか、はたまた卑屈になるかくらいしか身内の見方は内容にすら思えたりもする。そのくらい身内を見ることは難しい。恐らくは極めて難しいことのひとつだと言ってもいい。


 それと比較して敵を見れば、必要以上に恐れることで敵が数が多く、いかにも屈強に見えたりもする。かと思えば、いかにも敵が弱く大したことのないように見え、侮ることにも繋がる。
 つまり、身内の側には卑屈⇔尊大という線があり、敵の側には恐れ⇔侮りという線が生まれると言える。しかし問題なのは「妥当」に「見る」ということである。この二つの線の間で、しかも「妥当」を見出す。これがいかに難しいことか。



 まずよく見て現状を把握し、それに基づいて妥当な判断をし、そして当然勝てる戦いに赴く。勝てない戦いはしない。これが孫子の中に一貫している流れであるといえるだろう。




 ⑥これは感想だが、「中庸」ということが中国史や中国文学を学んだ人からは言われることが多い。要するに中国のことを学んだら、言いたいことは中庸であると。偏りを持たず、真ん中であることが一番重要なのだと。なるほど、いろいろ学んだら最終的にそういう結論に行きつくのだろうかと漠然と思っていた。
 しかし孫子を見る限りは、重要なのはどうも中庸ではないらしい。武将の個性、というより個人的な性質、長所は状況の打開などに欠かせないものだといっていい。
 まあその先に「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる」、つまり韓信などが功績が大きく恐れられたがゆえに真っ先に抹殺されることになった経緯を踏まえれば、確かに「雉も鳴かずば撃たれまい」といってもいいのかもしれないのだが。能力があり過ぎる、才能が有り過ぎることが不幸につながり身の破滅をもたらす。そういうものが無ければ韓信も死んだりはしなかった。そういう感慨のようなものに至るのかも知れないと思った。





















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