作品






 はて、オレは一体何やってんだろうなあなどとふと思った夜更けの話。


 多分こんなに一意専心に物事に取り組んでるのは……まあ人生ちょくちょくやってる気がするが(笑)、多分この熱量というか集中力というか、そういうのは多分小学生くらいの何かに共通するものを感じる。図工の時間が好きで、なんか50分の授業が始まって3分くらいで授業が終わったかのような記憶があるが、えもう終わったの?というのと非常に近いものを感じる。途中から何か脱線を始めて、何か作品作りとか芸術性への昇華とかそういう方面に向かい始めている感じがある。
 そう言う意味での前のめりに死ねるってのは果たしてどれだけ幸福なことなんだろうなあと。なんか畳の上で死ねる幸福みたいなことを誰かが言ってたがあれは本当に幸せなんだろうか。やるべきことがはっきりと見え、そのために一意専心に生きる、そういう対象があるってのが人の幸せなんじゃないだろうかなあ。例えばそれが海賊の財宝探しとかでも全然いいと思うんだが、そういう命を賭けるべき対象みたいなものが明確にあるかどうかが人生を決めてしまう気がする。そういうものを持てないで、OB的な立ち位置から高みから喋れるってのは人生有利ではあるけどプレイヤーとしてはもう引退しているわけだから後の人生はもう淋しい限り。正しかろうと間違っていようと、あるいは高みからだろうと低くあろうと、そういうことは人生の充実性とか本来無関係なんじゃないだろうかなあ。つまりはプレイヤーであり続けるってことで。0点を取れるってのは生きているプレイヤーの持つ最強の強みであり、最大の特権なんじゃないだろうか。そういうわけでこの世にはプレイヤーか引退者かしかいないんだと思う。
 ものすごくいい条件の話が合って、それを断ってこれやるとかやってるってのはもう、ああこれもう死ぬ気だなと我ながらちょっと思ってしまったなあと。例えクマが現れても、最初は逃げるつもりでもあー無理かとなったら多分殴りかかってもヤル気なんだなあと。でもそういう死んでもやるみたいな前のめりな生みたいなものを獲得できるってことは人生多分そうなかなかないことなんじゃないだろうか。だからまあとりあえずはやれることをやろうと。
 そういうわけで、プレイヤーがどこで死のうとそれは不幸だし恨めしい。やりかけのことがある未練がましさがあるわけだから。畳の上で死寝て幸せとか思わないだろう。でも引退者にとってはどこで死ぬか?となったら畳の上がいいでしょうなんていう話だけど、畳の上で死ぬとか死なないとかそういう話しか出てこないんだとしたらそもそもその人生は多分すでに不幸なんだろう。すでに人生の引退者、やるべきことを失っているか見失っているか手の内にないんだから。
 でもまあそういうやるべきことがすべてが終わったら多分やる気なくなってすっからかんの燃えカスになって、ポックリいくのも早そうだこういうのは。














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