三国志8というゲームについて






 なんかこのゲームについてたびたび書いている気もするが。多分前回書いたのは弓と騎馬と歩兵の組み立てがNPCは下手くそでとかいう話だった気がするが。探しても出てこなかった。まあいいか。個人的にもあまりにもおもしろすぎて昼夜を忘れて没頭した記憶がある。つい先日リメイクが出たらしいが、さすがに今没頭してまでやろうとは思わない。というか8はもうさんざんやったと思っているので。


 で、このゲームに関して言えば、このゲームに没頭した人の予後はあまりよろしくないのではないかなどという突拍子もないことをふと思った。なんというかイヤな性質を帯びるようになるというか。ふとそんな印象を思った。
 なぜそう思ったかというのをここに書き連ねてみる。


 ・このゲームの敵の編成が非常にヘタクソで、弓を先頭に出して突っ込ませて壊滅させる話はどっかで書いた気がする。そしてそれがいかに合理的か……あまりにも弓が強いので、先に壊滅してもらわないと褒美が減ってしまう問題があるということも。
 で、それを踏まえるならば、プレイヤーのやることは一つで、きちんと騎馬とかを先頭に出し、弓隊は後ろで援護射撃という形を自分の手で作るというのが一番手っ取り早い。つまりオレがきちんと指揮すればこうも簡単に戦場で勝てるんだ!というのをプレイヤーはプレイしながらなんとなく掴み取る。そしてそれによってそれこそ中華全土を統一することも容易になる。
 この過程においてプレイヤーが得るものは何か?ということである。
 ①ヘタクソな布陣をするコンピューターを見て学ぶ
 ②これってこうしたらいいんじゃないか?と自分で組み立てる
 ③その結果大成功し、連戦連勝する
 ④これを思いついたオレってもしかして天才なんじゃないか?という優越感を得る


 まあ恐らくはこんな回路を組み立てて延々やることになる。
 この④というのがけっこうな曲者で、ゲームをやるだけだったら普通にやって終わるだけなんだが、これをしながら優越感を少しずつ掠め取ることができるのだ。で、この回路にハマると予後が悪いと。なんたって敵は手加減プレイというかヘタクソプレイというかポンコツプレイをわざわざ毎回してくれるので、それを潰すだけなのだ。それは言ってみればヨイショに過ぎず、自分の実力とは言い難いところがあるのだが、それをそう感じさせないヨイショというのが一番うまいのだ。なんでもカラオケには裏技で点数を上げるという「接待モード」とかいうのがあるらしいのだが、まあそういう感じである。別にこれもお遊びでしょうと思えればいいものの、これを真に受けて「オレは天才だ」とか思うと予後が非常に悪くなる。
 まあこれが本当かどうかはわからないが、あくまでも仮説である。


 ・で、これに(飼い)慣らされると、現実においても敵や相手、状況などを下に見て見くびる傾向が出てくるようになるように思われる。的は当然ポンコツであり、風は追い風であって、後は当然蹴散らすだけであると。知らずしらずの内にそういう理想的なシチュエーションを作り上げ、それを現実に投影し、そしてそういうものだと思い込む。もはや軽度の洗脳だといえる。
 で、現実は当然ながらそう簡単ではない。コンピューターが弓隊を先頭に立てて突っ込んでくるバカさを披露するなら、こっちはその弓隊を囲んで撃破するだけである。そういう形で、現実はそれを上回ってくるのだ。コンピューターをプレイヤーとして叩き潰したように、現実はそのプレイヤーを叩き潰しにやってくる。そしてその時に思うのだ、こんなはずではないと。当然焦る。焦るんだが自他ともにそれは隠したい。そうなると上滑りする。それではもはや戦闘にすらならない。勝負にならないのだ。でもそれは仕方がない。相手や状況を当然下に見て舐めてかかる習慣があることになるわけなので、おかしい、こんなはずではないと思ったところでこれはもう仕方がない。


 ・この話がいかに厄介かということに関しては、別にモノの話ではなく概念の話であり、習慣の話ではあるが別に行動の話ではなくその裏面に属するような何かの話であるので、なかなか見抜きにくく起きている事態をそれとして把握することも難しい。複雑で、一体人は何に従って動いているのだろうと首を傾げるような話だが、恐らくあたりを付けるならこれだろうと。
 注文の多い料理店みたいなもんで、料理を食べる気でいたら実は自分が食べられるような話だが、いや本当にあのポンコツコンピューターはあれはあれでたちが悪い。しかし現実で考えれば弓を撃つ同僚がいつも高得点叩き出して出世も速いというなら落とさねばこちらが日陰者になってしまうと焦るのも妥当な話であり、ある意味真にリアリスティックなところを描き出していた作品だとつくづく思う。


 ・まあ個人的に一番印象に残ったのは、司馬懿で初めて20代から延々と鍛錬に励み、全能力値100を達成して喜んだところがすでに82歳。全てを上げ終わった三か月後に寿命が尽きて死んだというのが何かの寓話のようで非常に印象に残った。感想も何も出ないけど、ただただ何か言いたげな最期だったな……と思う。
 あれって今思い出しても人生の縮図というか、自分という人間を考えても「至らない人間だから」と研鑽を積み、積みに積んで聖人君子にでもなった到達した!!!……と思ったその三か月後くらいに死にそうな気がするので、果たしてこの研鑽に意味はあるのか???という振り返りはちょくちょくやっている気がするなあ。そういう後遺症は今もある気がする。その人の選択肢であり、コマンドが「鍛錬」しかないような人生は果たしてこれはどうなのか?ということである。


 そういうわけで、単なるゲームとはいえなかなかバカに出来ない立ち位置のゲーム、体験した人がかなり影響を受けてしまうゲームがこの三国志8だったんじゃなかろうかと思われるのだ。









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