鶏鳴狗盗その2






 ふと考えてみれば、この鶏鳴狗盗……つまりじつにどうしようもない卑しい連中を前にしてどのようにしていくか、孟嘗君は切らずに全員食客として迎え入れたわけだが、この問題は中国の歴史でその後ずっとつきまとう問題だったりするのだろう。


 劉邦は前漢の始祖だったかもしれないが、その忠臣であるところの樊噲(はんかい)は犬を屠殺する卑しい職だったりするし、曹参も蕭何も大した職の人間ではない。盧綰(ろわん)も劉邦と同郷で誕生日が一緒だったか近かったか程度の仲だったし、そもそも劉邦なんて単なる一農民の出で、別に高貴な生まれというわけでもない。張良は韓の宰相の家系かなんかだった気もするが、それは例外であって。韓信も一兵卒に過ぎず、他に特に目立つようなものがあるわけでもない。
 そうした中でも陳平というのは極めて評判が悪く、項羽の元から逃げてきたのもそうだが兄嫁と密通していたという噂もあり、業務上の王陵も当たり前という素行不良でよく知られた人物だった。


 そうしてみていくと、前漢というのはこの奇妙な連中の集まりによって造られた奇妙な王朝ということになる。劉邦自身も統一後は困ったようで、このごろつき連中をどうしてまとめていったもんかと思い悩んだが、そこで儒教と礼儀というものを説かれ、こんなに役に立つものだったとはと思ったという話がある。劉邦自身は別に孟嘗君を意識してはいなかったようだし、意識しているという意味では信陵君を尊敬してはいたようだが、そうなるとたまたまごろつき集団が力を発揮した結果、中国が統一されたということになる。
 統一後の宴会でも、「項羽は范増一人も使いこなせなかったが、わしの陣営は韓信、蕭何、張良なんかが頑張ってくれた。その差が大きい」と語っていたくだりがあったように思う。まあ個人的に最大の問題は韓信がなぜどうやって大元帥となれたのかということにあるような気もするが、今回はそれはいいとして。

 ・高貴な生まれということでは項羽は生まれが楚の項燕(こうえん)という将軍の家系であり、劉邦に比べればよほど血筋がしっかりとしており、しかもそれが憎き秦によって滅ぼされたというその悲哀っぷりが非常に人気だったようで、そうして項羽の旗印に集まった連中は楚を中心としてかなりまともでしっかりとした人らの集まりだった。
 この項羽の集団と、劉邦のごろつき集団が戦って劉邦側が勝った。このことの意味というのは、単純に歴史をなぞっても見えてこないところにある何か、つまり鶏鳴狗盗という言葉のもつ、それを言いたい何らかの意味合いと無関係ではないのではないかと思えるのだ。これはつまり「要するに孟嘗君という人は偉大だ」という風に理解や解釈をしようとするとズレる何物かであって、孟嘗君は前回見たように大した人物ではないというのは恐らくそれも前提として含まれていた。そして劉邦もそれは同じであり、一農民でぐうたらだったのがなぜか皇帝になったのだ。

 しかし、ではなぜそういう不可解なことが現実に起きたのか。それを解く一つのカギとして「鶏鳴狗盗」という故事は与えられているのではないか。鶏鳴狗盗というあの故事を誰もが漢文に触れて頭に入れ、当たり前のこととしてその前提で歴史を見る。そうしていくと、鶏鳴狗盗に当てはまるようなことが不思議とぽつぽつと見受けられてくる。そういうカギであり、歴史を読み解く上でのヒントとして、誰かの意図であの鶏鳴狗盗という故事は教科書に載せられているのではないか。
 ふとそんなことを思ったのだ。










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