ちょっと前にあったことだが、刷毛(はけ)が便利だということを知ってよし早速使おうと思ったが手元にない。確かあったはずなんだが、もう捨てたか、まあ仕方ない新しいのを買わないとダメかと思いつつ、諦めて、一時間くらい経ってそういえばと振り向くと、なんとそこには刷毛があったのだ。そうして手にした刷毛は重要な働きをすることになり、もはや必須の道具となったのだが。
ふと鶏鳴狗盗の故事を思い出した。
孟嘗君(もうしょうくん)という人物が秦から脱出するときに、盗みが得意なヤツがものを盗み出したり、鶏の鳴き声が得意なヤツが一番鶏の鳴き真似をしたりする、漢文の教科書にも載ってるアレである。要するに「つまらんことしかできんくだらんやつ、卑しいやつ」のことを指すのが鶏鳴狗盗の意味であるのだが。そのくだらんやつに命を助けられたのが孟嘗君であるというのことを思えば、時と場合によってはそういうやつでも役には立つ……つまり「枯れ木も山の賑わい」的なニュアンスもあるにはあるのだろう。
・ここからやや脱線。
王安石という人がこの孟嘗君についておもしろいことを言っている。卑しい人間が彼の下にいたということは彼自身大した人物ではなかったということなのだと。
個人的にはこれに同感で、戦国策を読み込んでいくと確かにそういう話も多々あるのだ。多額の借金を課していたが、とある知恵者が取り立てを頼まれるも全部焼き払ってしまう。人々はその行いに孟嘗君を褒め称えるも、孟嘗君はその話を聞いて激怒する。しかし人々は借金を帳消しにしてくれた恩を忘れずにいて……というような話である。本人は話をいくら聞いても信望よりは金だろうという感じだが、実際には彼はその信望によって大いに助けられることとなったのだ。しかしそのことがよくわかったという話はほとんどない。一応そういうことを悟ったような表現があったような気もするが、だからといって人間悟って急に行動を改められるほど賢くはないしなれないものでもある。
で、宮城谷昌光氏が「孟嘗君」の小説を書いたわけであるが、司馬遼太郎氏は「よくもまあ孟嘗君なんて人物をああもおもしろく書けましたな」と本人に言ったんだとか。恐らく司馬氏もいろいろな文献にあたって孟嘗君についてはとっくに知っていたが、そうして作った人物像とあまりに違っていたのでそういうことをつい言ったんじゃないだろうか。
・で、話を戻すと刷毛という実は10年くらい前に買っていたが全く役に立つことがなかったものが、この話を照らし合わせつつ急に重要性を増して輝きを増し存在感を増したということが、非常に面白い現象だなと思われてきたのだ。買えばいいわけだけど、手元にあっていきなり使えたことが非常に大きかった。そのまま忘れた可能性もあったわけで、大したことのなさそうなものが急に脚光を浴びて存在感を増す現象というものがあると。それが妙なインパクトをもって変に印象に残ることがあった。
してみると、孟嘗君は史実通り金はあるものの、まあ大した人物ではなかったかもしれん。鶏鳴狗盗は盗みが得意で鶏の鳴き真似が得意な卑しい人間だったかもしれん。そして漢文の教科書の選者はこれらの話を知っていつつも、敢えて他の話を載せずに「鶏鳴狗盗」の故事を教科書に載せたいと思った節があるのかもしれん。
その心やいかにと考えてみると、この世には実にしょうもない者や卑しい者、取るに足りない者、そういう者は実に多くいる。しかし孟嘗君はそれらを容易く切り捨てるということはしなかった。金もあり、知恵者もいる、何しろ食客3000人もいる、マシな人間や清廉潔白で素行も卑しくない人物など選ぼうと思えばいくらでも選べたはずだ。しかし彼はそうした人物たちを特に何か基準を設けることもなくとりあえず受け入れた。上客とかの差別化はあったにせよ、盗人だからと切り捨てたりはしなかった。卑しい奴らを下に見て優越感を得たいだけならできたはずが、そういったことをした節もない。かといって弱者救済といった正義感や心意気があるわけでもない。
そうすると取り立てて高みを目指そうとしたわけでもない孟嘗君は確かに大人物ではなかったかもしれないが、かといって卑しいだけの小人物でもなかった。事態から本質を見抜くだけの眼もなければ、見抜こうという意思も向上心もないが、だからといって先入観で人を受けいれないということもない。そしてその孟嘗君が困った時には、その卑しいやつらが全力で孟嘗君の身を守ってくれる。そしてそのマネはいかに勇壮な剣士や口の立つ弁士でも出来ないマネだっただろう。卑しいはずの人間がその持てる力を発揮すると、他の誰にもマネできないようなことを意外と簡単にしでかしてしまうことがあったりするものなのだ。
つまりは何か。
人やモノを、自身の身の回りにあるものや環境を大切にし、その環境をより良くし続けていれば、それ自身が持てる力を100%発揮してくれる、それが己の身を救うことがもしかしたらあるのかもしれない。
先入観で人やモノや事態を判断し切り捨てる愚を避けろ。まして恨みを買い敵に回すような言動は慎め。
孟嘗君のように、いかにしてその「卑しい」人やモノの力を活かし、存分に力を発揮させられるかを考えろ。
そういったことを感情を交えず、機械的に行え。
「鶏鳴狗盗」という卑しいものをどれだけ輝かせることができるかどうかは、人の器量、力量にかかっている。
そしてこれらのことを指摘している……という意味では、宮城谷氏の見方というのはそれはそれでかなり正しいところがあったということなんじゃないだろうか。
この記事へのコメント