頭の良さが言われるほど良いものではなく、頭の悪さが言われるほど悪いものではないという実態はあちらこちらにぼちぼちあるように思われる。ものすごく頭が良く物覚えが良いということは、それは頭の良さとされるもののうちの1つの能力でしかない。ところがこれが現代の日本ではものすごく珍重される嫌いがある。
・しかし今の日本を考えても、政治家なんてほぼ全員高学歴で、するとリクツで考えればとんでもなく頭が良いということになるが、ではなぜこの50年日本はこうも低迷し続けているのか。なぜ経済が低迷しているから消費増税、消費増税しているから経済低迷などということを延々と続けているのか。それはどうも、従来の頭の良さで言われる事があまりにも足りていないからではないかという疑いは挟まれていいだろう。つまり前提としての頭の良さとされるもの、そしてやらなければならないこと、そうしたことがどうも全く的外れな上にしかも両者が全く一致していないのではないか。そもそも頭がいいのであればこういう事態になる前にどこかでしっかりとした手を打っといてくれればという感じだが、もう日本は破綻が見え始めている感じがあっていかにも不吉である。
・そもそも我々は至らない人間であるがゆえに、たくさんのことをとりあえず頭に入れて、詰め込まれたそれをもとにして生きるべきだという無言の前提がある。これはこれで正しい主張だと言えるだろうが、ただ詰め込みをあまりに続けた人間の特徴としてインプットはものすごく得意にはなるものの、でそれをもとにして何をするのかといった時に意外なほど何もできないということが多々ある。それこそ受験勉強に成功した人間、そこでの成功だけを心がけてきた生きてきた人間はダメだという言説がちらほら聞かれるほどであり、ネットでのそうした言説は決して少なくない。
彼らの頭が悪いわけではなく、むしろ従来の見方に従えば非常にいいことになるのだろうが、問題はインプット特化された頭ではその他のことがかなり不得手になる傾向はどうもあるらしい。御高説にそのリクツはともかくとして、ちょっとやってる人なら当たり前のことすらできないということは人生往々にして見受けられるのではないだろうか。
・しかし今の日本を考えても、政治家なんてほぼ全員高学歴で、するとリクツで考えればとんでもなく頭が良いということになるが、ではなぜこの50年日本はこうも低迷し続けているのか。なぜ経済が低迷しているから消費増税、消費増税しているから経済低迷などということを延々と続けているのか。それはどうも、従来の頭の良さで言われる事があまりにも足りていないからではないかという疑いは挟まれていいだろう。つまり前提としての頭の良さとされるもの、そしてやらなければならないこと、そうしたことがどうも全く的外れな上にしかも両者が全く一致していないのではないか。そもそも頭がいいのであればこういう事態になる前にどこかでしっかりとした手を打っといてくれればという感じだが、もう日本は破綻が見え始めている感じがあっていかにも不吉である。
・そもそも我々は至らない人間であるがゆえに、たくさんのことをとりあえず頭に入れて、詰め込まれたそれをもとにして生きるべきだという無言の前提がある。これはこれで正しい主張だと言えるだろうが、ただ詰め込みをあまりに続けた人間の特徴としてインプットはものすごく得意にはなるものの、でそれをもとにして何をするのかといった時に意外なほど何もできないということが多々ある。それこそ受験勉強に成功した人間、そこでの成功だけを心がけてきた生きてきた人間はダメだという言説がちらほら聞かれるほどであり、ネットでのそうした言説は決して少なくない。
彼らの頭が悪いわけではなく、むしろ従来の見方に従えば非常にいいことになるのだろうが、問題はインプット特化された頭ではその他のことがかなり不得手になる傾向はどうもあるらしい。御高説にそのリクツはともかくとして、ちょっとやってる人なら当たり前のことすらできないということは人生往々にして見受けられるのではないだろうか。
・これらは天才よりはむしろ秀才にまつわることに思えるが、ただ頭の良さに関していえばどちらにしろ言わんとしていることに変わりはない。とりあえず物覚えがものすごくいいことだけが珍重されると。
これによって幅広い範囲を浅く広く知っている、勉強で覚えられる範囲はとりあえず網羅したというような場合、理屈としては非常に素晴らしいというようなことになるが現場としてはあまりありがたがられることはない。
むしろ、そういうことのできないバカ、自分のやってることしか知らないような専門バカは非常にありがたがられる。その分野を熟知しているわけだし、経験もあり、したがって勝手にその分野により詳しくなってくれるだろう。
・となるとバカ、専門「バカ」というようないかにもマイナス評価を受けていそうなものの方がむしろ非常に望ましい結果にはなっている……というのが実態に即していると思われる。それは頭は悪いかも知れないが、その狭い範囲に関してそつなくこなせるのであれば全く問題がない。自分には全く無関係のことは知る必要がないし、むしろ専門特化で勝手にレベルを上げていってくれるならそれは望ましいと言える。分野外の全く意味わからん話を得々として延々話し続けられる不毛さを思えば、専門内のことを仲間内で話し合える関係の方が快適であることは疑いないだろう。
・ところで、では受験勉強に全く意味がないか、個人的に完全に否定的なのかといえばそうではない。
例えば嫌いな数学や英語を、イヤだイヤだと思いながらも向き合えるということ、そして嫌いだったものを好きで得意な分野に変えられるというのは個人の経験としては非常に素晴らしいものだと言える。そのこと自体は忘れようとも、嫌いな分野を積極的に、興味関心や好奇心からではなくその必要性から学べる、必要性に応じて対応できる姿勢というのは恐らく受験勉強を経て人が手に入れるもののうちで最も強い武器の1つと言えるだろう。
この必要性から勉強できる姿勢というのはものすごく強い武器であって、そうしたことを避けて生きてきた人間の特徴はこれが全くないことにある。まあ当たり前ではあるのだが、その場合苦手なものを克服した経験がない、努力した経験がない、そこでの成功体験がないことになる。つまり必要性ではなく、好奇心や興味関心が個人の行動の欠点権を人生に渡り常に持つことになるわけで、それだけならある意味幼稚園児や小学生でもできる。人間の本性(ほんせい)に沿って生きているだけに過ぎないともいえる。
好きで楽しいことだけ、その範囲だけをやっているだけで人生いいというのであれば、これは好きで楽しいことだけに囲まれただけの引きこもりと全く変わりがない。そうではない世界を開拓していき、触れて自分の知らないその世界を知っていく、世界の広さを知っていく過程なくしては、果たしてこの世界の可能性を存分に味わい尽くせると言えるのだろうか。これは成功や失敗とは関係がない。嫌いなものも含めて取り入れることが個々人の世界観を豊かにするという好例である。
範囲外に行かなければ人生ミスることはない、ミスらなければ叱責されることはないし笑われることはない……という賢明さはそこそこ認識されているものと思われるが、かといって叱責されなければ人生成功かといえばそんなことはない。全く叱責されないことで人生何が悪かったのかもわからずに行き詰まり、行き詰まっていることにすら気づかずに無為に時間だけが経ち、そして死んでいく事例というのはかなり多いように思われるのだ。そしてそれは失敗だと呼べないだろうが、成功だとも呼べないものだろう。
・では端的に言ってどちらが良いのか、勉強はしたほうがいいのかしない方が悪いのか。いずれにいろそれは良し悪しで一長一短であるということになるが、問題はそこにはないだろう。
そのどちらを選んだにしろ、引きこもり気質……つまり新しいことだけ暗記していれば人生は良いのだ、それ以上やることは何もないのだということと、既にあることだけやっていれば新しいことなんかしなくても人生踏み外すこともないという引きこもり気質、これにかかってはどちらも同じでどうしようもない。
勉強しようがするまいがこの引きこもり気質という気質にかかっては引きこもるためのうってつけな材料に過ぎないということである。その意味では、部屋に引きこもっているだけが引きこもりではない。活発で活動的であるが実は自分の得意分野をひたすら一生なぞり続けるだけの引きこもりや、ひどく勉強家で意欲的に学び続け暗記するだけの引きこもり、自分の専門範囲内からは一歩も出ない……負けないが勝つこともない引きこもりもいるということになる。
こうした気質にかかってはどれを辿ろうと大同小異、どの川をなぞろうと最終的に海に出るようなもので、結末というのは既に決定されていると言えるのではないかと思った今日この頃。
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