多分だがここ20年くらいでものすごく大きく変わったものの一つに、天才という言葉のもつ意味合いの変化もあるのではないだろうか。それは主にイチロー氏にまつわることになるような気もするが。
元々は例えば「頭がいい」を中心とした程度の軽く漠然とした意味しか持たなかった気がする。そして天才は秀才に勝ち、秀才は凡人に勝つものの天才は凡人の前では勝てないというような何かストーリー性みたいなものをもたされつつも、この三すくみのじゃんけんみたいな関係性の中である種のレア枠としてちょっとだけ嬉しいというような程度の意味しか持たなかった。基本的にはあまり多様な意味合いなど持たず、それひとつあれば既存の価値を大きく変える、とんでもない成果を残す、そういうものを指すのが天才だっただろう。別に頭の良さだけがすべてではないが、他の能力に関してもそこまで大きな違いはなかったように思われる。とんでもない成果を残しさえすれば、とりあえず天才枠へ、天才というゴミ箱へ放るように区分されてきたのだ。
・ところがイチロー氏がアメリカで大活躍するにしたがって、間違いなく野球の天才というくくりに入るだろう彼がそういう枠ではくくり切れないほどの多彩な意味合いを持っていることが次第にわかってきた。そのうちの一つは努力だろうが、膨大な量の練習をこなしていると。しかもしっかりとした考えに基づいてやっている。これはどうも天才ではないらしいぞとなった。従来の天才という言葉ではくくり切れないが、しかし天才という枠で彼を物語りたい欲求もものすごくある。何よりそれ以外に彼を形容する相応しい言葉がない。当時そういう葛藤があったように思われる。
そして走攻守共にできないと野球選手としてはダメだと彼は言っていた。それは当たり前と言えば当たり前ではあるだろうが、それらの能力を平均的に持っておかないとそもそもプロにはなれないだろうから当たり前っちゃ当たり前ではあるだろうが、それでも従来の野球は何か一つ秀でたものがあることがプロの条件、そしてプロはそうした中でも天才的なものを持っていさえすればよいというある種の見方に対する反抗だったのではないかと思われる。それらすべてを非常に見事にこなしていたのだから。
そしてある試合で彼は取れない外野フライをキャッチするふりをするという芸当をやってのけた。これによって彼は演技力さえあるということが証明された……つまりよく考えて野球をしていることであり、その演技力すらも非常に効果的だということを示した例でもある。これは天才的なプレイだと称賛したいところだが、よく考えに考えられた末にできた頭脳プレイであり、彼が天才的で、あれは素晴らしい反射だったという話だけで押し切ろうにもなかなかそれは難しい。まあ折衷案を出して素晴らしい頭脳プレイと天才的な反射が合体した場面だったと言えるだろうか。そういうわけで、走攻守にプラスしてその他の分野においても彼は活躍していた。
・こうしていろいろなことがあるにつれ、「天才≒イチロー」みたいな枠があったとしてイチローの活躍に従って天才の枠すらも大きく変わることになったような気がするのだ。天才は一つの分野だったものがよりマルチな分野へ、そしてその分野のもの全てをうまくこなせて当たり前。一つだけ突出したものがあってもそれは天才とは呼べない。従来ならばそれで十分天才と呼ばれた人でさえも、今の目線で見ると何か物足りなく見える……今起きているのは恐らくそうした言葉とその語感、概念にまつわる何かがガラッと変わってしまったがために生じた生きづらさなんじゃないかということを思ったのだ。まして今大谷翔平選手が大活躍している最中なわけで、そのくらいの活躍でないと活躍とは呼べないし、何より我々自身の「天才」枠というのが満たされなくなっているのではないだろうか。
これは種で例えるならば、今までは大きくなる可能性だけのことを指して「才能」「天才」と呼んでいたろう。それに対して肥料をやり、水をやる、そうすればいつかは大きく成長すると。まあ天才ってのはそういうものだと。
しかし今は違う。肥料のある場所を自分で探してそこに定着する能力も必要だし、必要であれば水を自分に与える能力も必要になった。なんなら自分で日照りに備えて水を蓄えておく能力も必要となったし、そこまで完結出来て初めて天才であり、そもそも天才なんだからそのくらいは出来て当り前だろうと。そういうわけで期待値だけ、そして結果を求める我々の目線だけものすごく大きく跳ね上がったままになっているんじゃないだろうか。
・そういうわけで、一つに秀でていればいい型の従来の天才にとってはものすごく生きづらい世界になっているなと思う。何しろそれでは誰も天才だと認めてくれないわけだから、天才性は剥奪されたと言ってもよい。一つだけ秀でたものがあればよい、ではもはや誰も認めてくれない。
だがこれは同じことの表裏であって、恐らく多種多様なことを同時にこなす能力のある人にとっては流れが来ているなと。ホームランさえ打っていればよいではなく、走攻守全てを高いレベルでこなせる人にとってはそこに価値が付与され評価される時代になっていると。今まではそういう人は
「……で、いろいろできるかもしれないけど何かこれと言った取柄はないの?」
みたいな言い方がされていた、要するに物足りない人材とみなされていたものが、今後は
「こんな多種多様なことを一人でしかもこんな高水準でこなせるのか!」
というような評価のされ方になるんじゃないだろうか。
・このことは恐らく2015~2020年ごろにあった細分化問題にもつながるところがある。従来の専門性というのは一人の人間がその分野だけを徹底的にやるものだったが、それにしても学問というのはあまりにも細分化され過ぎてしまい、学者は多数いるがその全体像を把握できる人は皆無という問題が起こった。二つの分野を掛け持ちすればいいというのは簡単だが、それをするにしたって範囲は膨大で、それをやればそりゃあ実りはあるにしても人生は有限だというのに一体どれだけ勉強すればいいのかというような事態になった。そういう流れの中でAIが登場し、専門性の範囲をまたいで学習し(学習させ)、そして幾つもの範囲をまたいだ研究を続行しているのが現代だといえる。これはつまり人類、人間には不可能な範囲の出来事だということになる。
そういう不可能さはあるにせよ、かつては人間が先行しAIはその後をくっついていくだけだったろうが、今はAIが圧倒的に先行し人間はその恩恵を受けるだけ。AIの下位互換が人間になってしまった世界、そうはっきりと示されてまるで曇天の下その圧力を感じながら毎日生きざるを得ない中で、それでもAIに負けじと超人並みの成果を出し続ける大谷翔平選手の活躍を見ながら、見ろ、人間もまだ捨てたもんじゃないぞという人々のその思いを満たしてくれる意味合い、それこそが「天才」の意味であり、あるいはそれこそがそこに込められた人々の期待であり願いなのかもしれないなあなどと思ったという。
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