家畜に神はいないッ!問題






 アルガスについていろいろ考えていたので、これで記事二つは書けるなと思っていたら二つとも忘れてしまった。メモも取ってない。まあまた思い出したら書くとしよう(余談だが昔から忘れるはやさは異常に速い。言おうとしたことを口を開けた瞬間忘れるなんてこともちょくちょくあるくらい。最近頭を打ったしより早く忘れるようになった気もする)。


 ということでガフガリオンについて書くことにする。
 昔FFTやっていた時にはタクティクスオウガに似てるなーと思っていたが(まあ作者が同じなので)、タクティクスオウガに関して考えていたらかなりFFTについてまとめやすくなっていたような気がする。タクティクスオウガはオウガバトルに通じると思っていただけに、こっち方面は実はかなり想定外だった。


 ガフガリオンの会話はそこまで多くないので。
 この滝の場面に関して。

 ・重要なのは「LかCか?」それはつまり「クズかバカか?」ということで最近タクティクスオウガをざっと見てきたところだが、同じ目線でこの問題を眺めることはできるだろう。しかしそれが完全に正解だということにはならない……というのはこれに付随して「仕事だから、プロだから」という新しい軸を入れているのがこのガフガリオンだと言えるだろう。やってることはクズそのもの、人の心とか倫理観を説くなら最低レベルだろうが、しかしガフガリオンには「自分はプロである」という強烈なプロ意識がある。そのプロ意識の前では、人としてクズであろうが、バカであろうがそんなことは関係ない。人殺しなんてクズだと言われようとも、それを頼まれたからきちんとこなすだけ。ガフガリオンにはガフガリオンなりの理屈があるのだ。つまりxーyーz軸で考えればバカさ(バカと言われようとも守るべき道徳や倫理観)は皆無、クズ度はかなり高いがそれ以上にプロ意識が高く、そのプロ意識の高さによってクズ度が決定されていると考えることができるだろう。クズであろうとなかろうと、それは二の次であり、高いプロ意識の前ではもはやどうでもいい問題なのだ。


 ・そしてディリータを見たガフガリオンは思い違いをする。
 一人で多数の追手と戦いながら切り抜けていく。腕が凄腕なのは確かだとして、その威性の良さ、大胆不敵、まるで命知らずにも見えるがそうしたものは目を引くものがある。じゃあこれらは一体何に基づくか?と言った時にガフガリオンの中にあったものでそれを推し測れるものは「プロ意識」でしかなかった。
 どうやらこいつは傭兵だぞと。
 こいつの一連の行動はオレの中にあるもので測るとすればプロ意識しかない、つまりは仕事で請け負っている、こんな危険な任務となると余程大金を積まれたに違いない。じゃあ誰が任務を与えたのだとガフガリオンは考えるが、ディリータが言ったとおりにそれらは全て外れている。え、じゃあ何か、正義感に駆られたガキが王女が可哀想だからって救出に来たってのか?と問うが、これはディリータの答えを別に求めているものではない。つまりはプロ意識の高い、クズを厭わないガフガリオンにとって正反対に位置する……ラムザと似たような正義感を振りかざしているディリータが、たまたま計画を嗅ぎつけて助けにきたなんてことはあり得ないと想定している。そんなことはガフガリオンのような男にしてみればまさに寝言だったろうが、ラムザじゃああるまいし、そんなことはガフガリオンの想定通りなかったということになる。ただ、クズかクズでないか?あるいはバカかバカでないかと考えていった時に、プロ意識というものの対局にあるものを同様に考えてみた場合に、「プロ意識か、それとも……?」というよくわからない何かがあって、それがディリータにまつわる何かであり、その得体の知れなさがガフガリオンにとってもショックだっただろうが、話の中にある多様な「軸」としても広がりを感じさせる展開だと考えることはできるだろう。それはLとプロ意識がどうやら相性がいいらしいのと同様に、Cと「何か」も相性がいいらしいというそういう何かなのだ。


 ・あとはもうラムザがひたすら論破されるだけの展開である。
 「汚い仕事を!」
 「金を稼ぐのに奇麗もクソもあるか!オレはプロの傭兵なンだぞ!」

 「しかし、しかし……こんなこと、許されるっていうのか!」
 つまりラムザの内心には人としての道という確固としたものがあり(つまりはC)、それというのはプロ意識やLであることに遥かに上回る問題なんだが、今目の前で起きていることが平然とその倫理観を踏みにじっていくような事態を受け入れることができない。
 「”しかし”って言うンじゃねえ!お前は目の前の”現実”から目を背け、逃げているだけの子供なンだよ!」
 この時点ではっきりしたものがあって、ディリータにまつわる何かCと相性のいいらしい何かでありおぼろげな何かがあるんだが、その得体のしれない何かはどうもラムザを通してみると「子供」らしいと。プロ意識にまつわるものっていうのは大人だから当然割り切って仕事をする、クズであろうとなかろうとやる、というそれがプロ意識というものだったはずだが、じゃあその対極にあるものは何かって言ったら単に現実を受け入れることができない、クズな行いの前で「そんなことが許されていいのか!」と役にも立たない道徳を振りかざしてわめくだけの子供だったということがはっきりしたと。
 じゃあなぜバカであり子供なのか?一人で生きていないからだと。誰かに頼り、あるいは誰かの価値観に縋る。それがイヤで生きようとすればどうしてもクズであろうとなかろうと生きていくことになる。クズな生き方も許容することになる。そういうことをガフガリオンが言っているということはつまり、得体の知れないものの気持ち悪さというものを払拭したくて言っている、そしてこの短い戦闘の最中に自分なりに納得のいくものをまとめ上げたということでもあり、余計なものをその後には残さないという意識が多少なりとも働いていたと考えることもできるのでは。









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