タクティクスオウガ㊱-6、バカ論クズ論、デニムの話その2






 ということでバカな方向性を選んだデニムについて書いてきたがまとめると。
 ①バルマムッサの虐殺に特に理由もなく反対した。これはつまりせっかくのウォルスタ民族が手に入れた切り札であるところの、虐殺を行った上にそれを敵になすりつけるという効果的な手段に反対したということでもある。それは極めて道徳的だったかもしれないが、自分たちの存亡の危機を回避できるかもしれない効果的な方法を失わせるところだった。
 ②追手が掛けられ、自分たちが滅び去るかもしれない時にのんきに人助けをする(バイアンとフォルカスとシスティーナのくだり)。
 ③そしてバクラムがウォルスタに侵攻を開始し、ウォルスタが今にも滅ぶかもしれないという危機で、敵(ロンウェー公爵やレオナール)と手を組んで最悪滅亡することだけは回避する……ということができない。たとえ滅んだとしても、敵と手が組めないという選択をする。

 というような流れがある。ここにある「バカ」をまとめると、①は道徳的だとか人道的だということで考えられるだろうが、②に至っては至極いい人、しかし③に至ってはどうだろう。滅ぶかもしれないのに手を組まずに「お前らと手を組むぐらいなら死んだ方がマシだ」とばかりに提案をはねのけるのである。この選択は筋が通っているとは言えるが、賢明だとは言い難い(あるいは賢明だとは言い難いが、一応筋は通っているともいえるだろう)。

 そして④ウォルスタ軍がガルガスタンの残党狩りを開始することとなる。これを普通に考えるならば、敵対勢力同士が潰し合いをしてくれているわけなので、今回は休めるなと。いわば「漁夫の利」、潰し合いをしてくれた残りの方と戦えばいいという話なのだが、デニムはここでガルガスタンの残党狩りをウォルスタよりも先に開始することを選ぶ。そしてそれが終わったらウォルスタ軍と戦うことを選ぶわけなのだが。この選択であり決断が通常考えられる限りにおいて最も愚かなものであることは言うまでもない。せっかく他勢力が潰し合ってくれて、自分たちの生存の可能性が上がるという場面で、よりによって二連続で戦いをすることになる。


 ここにおいてデニムの「バカ」さがレベルを上げていることが窺える。バルマムッサの虐殺に関しては、まあ非人道的極まりない選択であるので躊躇しても仕方のないものだっただろう。しかしわざわざ戦わなくてもいい場面において二連続で戦闘を行い、二つの勢力を共に相手にするとは?被害の大きさ、被害を被る可能性の大きさ、滅びる可能性等を考えてもまあまともな決断とは言い難いものがある。しかしバカがクズを毛嫌いするものと考えるならば、その選択にクズな余地、即ち自分が得をしてちょっとした小ズルい手によって自分を有利な状況へと持っていくというそのせこさが許せないと考えた場合、こういう「清い」とか「潔い」とでもいうべきバカさが現実においても出現する可能性はあるのかもしれない。

 ・だとすればそうした「清い」「バカ」さを糾弾する男が現れる事となる。それがザエボスである。
 デニムにとっては権力者があれこれとすることによって力を持たない人間が傷つく、それを防ぎたいと思っている。だからこそ力を持たない人を守るためにそうした思惑を持った人間でありその勢力と敵対するという思想で戦っている。だからせっかくの他勢力の潰し合いの場面で二連続で戦闘をするような愚かなことをするわけだが。
 「そう言いながら一体お前は何人殺してきたのだ」とザエボスは言う。それがベストだと思っていたからデニムは戦ってきたはずが、気付けばガルガスタンの残党にウォルスタ正規軍にと戦いで大忙しである。力を持たない他人を守りたいはけっこうだが、戦闘回数が増えるごとに殺害者数はどうしても増える。守りたいは結構だが、見方を変えれば単なる戦闘狂、人殺し大好き人間でしかない。恐らくはこうして「クズ」を毛嫌いして「バカ」道を突き進んできたデニムにとって、「清いバカ」どころか、見方を変えれば単なる「クズ」の亜種でしかない自分……の姿というのは衝撃だったのではないだろうか。


 ここにきて、クズではなかったはずのデニムの存在意義が大きく揺るぎ始める。自分はバカだと思ってやっていたデニムだが、実際にはクズの要素が大いにある。人を守りたいの理想のために、一体何人殺してきたのか。それというのは結局やり口を変えた「クズ」の手口であり、それだけの犠牲を必要とする理想というのは一体何なのかと。そしてそれは「バルマムッサの虐殺」とは違えど、虐殺と一体何が違うのか。思想を持ち、しっかりとした理想を持っていれば、そして形式さえ違っていればそれは悪逆非道な虐殺とはみなされないものなのか。ここまでくると「清いバカ」どころか単に形を変えただけの「クズ」であり所詮はクズ亜種でしかないことにいやでも気づかされる。クズを嫌ってバカを標榜するも、その仕組みそのものがありきたりで、旧来のクズにとって代わるだけの新しいクズの様式でしかない。そうして古いクズが新しいクズにとって代わられるだけの手口であり、そういう手法というのはもうありきたりで、それ自体がよくあること、よくある現象だとザエボスは言っているのだ。






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