ところでデニムは虐殺に反対した場合C→Nと動くことができるが、一方のヴァイスは仮定によればC→L→Nへと動くことになり対照的である。この対照性に関してはまだ考察される余地があるだろうが、確かだろうと思われることというのは、ヴァイスならバカな生き方をしているうちに組織を作ることとなり、組織を運営すればクズを許容していくことも必要だと悟らされることとなった。かといってLの生き方を貫くには力がなく、人の助けを借りざるを得ない。こうしてクズでもあるがバカでもあるという境地へと達することになる。デニムもそうで、虐殺には反対するが滅亡するくらいならクズを許容せねばならないと悟っていく。バカな生き方をするにも限度があり、虐殺に加担したやつらはクズだが、しかしクズを許容せねば生きてはいけないことを悟っていくようになると考えられるだろう。
そして、そうしてクズとバカとを悟ったデニムがNであると考えるならば、ある意味十全かつ円満な思想であり、毒舌ナイトであるザエボスはその付け入るところを見出せなかったのではないかと思える。クズだと言うにはバカでもあり、かといってバカだと言い切るにはクズの要素も兼ね備えたデニムは世の中を一般人としてはある意味よく分かっているといえる。器用であり、立ち回りもうまく非難する隙がないのである。それはバカを貫くとかクズを貫いた先にあるものにまでは到達できないにはしてもである。
・Cの場合ザエボスが指摘するのは、いくら綺麗事を並べ立ててもそのうち「汚れる」ということである。いくらクズではないという道を作ろうとも、そうして主張した通りにやっていくには誰かが汚れ仕事を引き受けるしかない。クズによって裏面が塗り固められていくからこそ表面もそれっぽくなってはいるが、一皮剝けば真っ黒である。そうした組織が歴史上幾度も現れては滅んでいったことだろう。新しい組織が生まれ、それはクズを許容しており、そしていつかは化けの皮が剥がれ、そして消えていく。そしてまた新たなる組織が生まれる。それだけの話である。
そしてザエボスの指摘の通り、現にデニムは理想を掲げていはするものの、「その理想のために一体何人殺してきたのか?」これはデニムの急所をえぐったに違いない。「オレはバカであり、クズとは違う」と言いながらやっていることは確かにクズ。虐殺に加担していないだけのクズであり、これは第二のバルマムッサの虐殺への予感を感じさせたに違いない。少なくともオレはクズではないというには、すでにクズへの第一歩を歩み始めているのがデニムである。枢機卿はガルガスタン民族をまとめ上げ民族浄化を行い、ロンウェー公爵はウォルスタ人を率いたかもしれないがバルマムッサの虐殺を引き起こした、それと同じようにデニムも新しい組織を率いてはいるものの、それは同様に新たなる悲劇へと繋がりかねないというだけんの意味合いのものでしかない、という予感を感じさせた意味合いは重要だろう。
ザエボスの言う通りで、「所詮は同じ穴のムジナ」でしかないのである。
こうして旧来の秩序であるところの「クズ」に反対はしたものの、そうして理想を掲げ「バカとして」立ち上がったはいいが、結局は組織の存続の事情などを加味するとクズ要素をどうしても受け入れざるを得なくなり、結局は堕していく……結局は元の組織と何ら変わらない、「クズ」に落ち着くという皮肉がある。そういう悪戦苦闘ぶりがデニムからは見受けられる、つまりザエボスの指摘は全くの見当違いだと言い切れないところがデニムの側にもあって、その痛いところを突かれたがゆえにその迷走ぶりから逃れなければならないという事情であり焦りがデニムの内心にもあると考えることができるだろう。
「クズ」がおり、それに反対して「バカ」が新たな秩序を興しはするものの結局はどこかで「クズ」を受け入れざるを得ない悲しみというものがあり、そうこうしているうちにバカは気づけばクズに堕しているというザエボスの唱えた世界観というのは的確であり、少なくともデニムの心中を深く抉るだけの力はあったと考えることができる。
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