それにしてもまあ連日よくもこんなにバカだのクズだの考えているなあと思うが、とりあえず心は荒むなあなどと。まあ面白い視点だと思うので、とっとと一生分ここで分析してまとめておきたいところである。タクティクスオウガに使う概念として分析することにする。
まず「あいつはバカだ」というようなケースを考える。
①その言っている側というのは一人にしろ多数にしろ、その対象を「バカ」呼ばわりしているということになるが、その事情はともかくとしてそれを言えるだけの背景であり根拠というのはそこそこあるとは思われる。少なくともオレたちはそんなマネはしない、つまりそこまでバカではない、そう言えるだけの根拠があって初めて「あいつはバカだ」と言えることになる。そういう意味では決して根も葉もなく言っているわけではないということになる。つまり「オレたちはあいつに比べて頭がいい」と言っている、あるいは思っていると考えてもいいだろう。
②しかし問題は、それが仮に極めて正しく例えばIQの値として圧倒的な違いとして出たとする、50と100でもはや結果は歴然としているとする、あるいはテストの点でもいいだろうが、平均50点でオレは100点、あいつは10点も取れなかった、仮にそういう場合があったとしてもそれが即ち「あいつはバカだ」と言える権利であり資格を有する証明になるとは限らないことにある。いやそれは確かにお前の言う通りであって、客観的に見てもあいつはバカかもしれないけど、しかしそれを面と向かってはっきり言うお前は一体どうよとこうなるわけだ。ここでかかっている点というのは頭の良しあしではなく、むしろその性格や気遣い、気性、それが仮にそうであったとしてもそれを思慮分別なく言える分別の無さ、あるいはそういうものを慮ることのできない思いやりの無さ、そういった点にかかってくると考えられるだろう。バカだから殴っていいとかいじめていい、その権利があるなんてのは言うまでもない。仮にそうであったとしたならば、そりゃお前は頭はいいかもしれないが、しかし人としてはクズだよねという判断がなされてもおかしくない。こういう時にもう少し謙虚さをもてよとか、思いやりを持てよというのは、そのクズ軸上におけるレベルの高まりの方向性を示唆していると言ってもいいだろう。
③つまりy軸というものに頭の良さを取ったならば、頭がいい⇔頭が悪いというものを考えるのは容易いし、バカである⇔バカでないというのを考えるのも容易いし、なんなら点数やIQ値によって具体的な点数というものを図って配置していくことはできる。しかしそれはあくまでそれであって、だからといって何でも許されるというわけではない。それはまた次元の違う話だと考えた際に、その「クズ」というものは別にみていかなければならない、となるとx軸に「クズ値」というものを配置することができると考えられる。
そしてクズということだが、「あいつはクズだ」というような場合を考える。
④「あいつはクズだ」といった時にあるのは「オレは(あるいはオレたちは)そうではないがという前提があることになる。オレたちは頭は悪いかもしれないが、しかしクズではないと。あるいは頭がいいからクズであるとみなされることのマイナスと不利益がわかるからクズではないとも考えられるだろうが、それはややこしいので後述する。少なくともオレはあそこまでクズではない、という場合にあるのは上の場合と同様、その人の行いと比較して少なくともオレはそこまでひどくはないという判断が大なり小なりあって、それが根拠になっているからそれを言えるという事情はあると考えられるだろう。つまり決して根も葉もないわけではないという意味では①と同様である。
⑤しかしこれも同様に、あいつはクズだなんてことをはっきりというなんてことを考えると、そりゃ言い手の人としての行いとしてはクズじゃないから言えることなのかもしれないが、それを思うとか言うとなるとこれは少しバカなんじゃないかというのは挟まれていい疑問である。それを思うこと、伝えることに関して何も得るものはない、それどころかそういう対象に「あんたはクズですね」なんて告げた日には殴られるか刺されるかしてもおかしくない。そういう意味では、クズというのは殴っちゃいけない、刺してはいけない、騙してはいけないなんて意識が希薄なわけで、そういう意味でのクズと考えるならば、クズを称して「クズだ」と言うということは、そのバカさというのは命取りになりかねない。それは社会を生きる上では「触らぬ神に祟りなし」というような話になる……つまりそういう対象に触れてはいけないという経験則、そしてその正しさに繋がるところだろう。
⑥そういうわけでx軸上にクズを取るならば、聖人から悪人までぞろりと並ぶことになる。しかしこれを正確に補足することはかなり難しい。クズであるかないかなんてのは詐欺師と窃盗犯と人殺しを並べるようなものでもあり、そして既にやった人ならともかく、まだやってないだけの人もいるわけだし、その機会があったらやるかもしれないがまだその機会が訪れてないだけかもしれず、そして一生涯その機会が訪れない人だって中に入るだろう。そういうわけで、概念としてはクズ軸は成り立つしそれっぽく展開することもできるだろうが、しかしそれがどこまで正確かについてはかなり難しい問題である。
⑦ところで②と⑤については疑問を挟む余地がある。
②「バカを見てバカという権利」を言えるクズみたいな話だったが、これは果たしてクズだけの問題なのだろうかということだ。むしろ露骨にイジメたりして内申点が削られる、補導される、逮捕されるとなるとこれはもう「頭のいいクズ」という話じゃなく、それは単に「勉強ができるだけのバカ」なんじゃないのかということである。これに関してはそう思っても間違いじゃないんじゃないだろうか。つまり、クズとバカとは決して矛盾する概念ではない、それどころか互いに独立し、あるいは時には相関し合う、時には因果関係すらある、そういうものだと考えた方がむしろ辻褄は合う。
クズなことを平気でできて後先を考えられない性格や気質ということは、バカということと矛盾しない。
一方の⑤「クズを見てクズと伝える」バカということだが、この問題はかなり難しい。きちんと伝えれば殴るか刺されるかする可能性があり、危害を加えられかねないから何もしない方が賢い。個人的な判断としてはそれが賢い。
しかしこれはいわば火事みたいなもので、ボヤのうちに消せば大したことはなかったものがエスカレートしていき悲惨な、凄惨な事件に繋がるということはしょっちゅう起きている。直接何かをしたら軽いやけど(殴られる、刺される)となりかねないが、放置していたら社会的に問題のある事件に、いわば大火に繋がるのだ。かといって「火事だ」なんて言った日には第一発見者として容疑者として事情聴取されるかもしれないし、犯人ではなかったにしろ「あの人第一発見者らしいよ」とヒソヒソ言われることだってあるだろう。ここまで行けばバカ正直にやったバカがどれだけ痛い目に遭うかということがわかるというものである。
そこまでいけば、そういうバカになるよりかは知って見て見ぬふりをする……もはや典型的なクズだが(笑)、そういう判断の方が賢い場合は少なくないだろう。女性にAEDを使って証拠写真を取られ、命の恩人のはずが賠償金寄こせというのが社会問題になっている昨今でもあると思えば、「クズとなろうとも(正義感に駆られた)バカとなることなかれ」というわけである。つまりこの場合もバカとクズとは深い関係があるということができる。
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