タクティクスオウガ㊱-1バカ論クズ論





 文学やるって言ってから長いが、やってるのは蜘蛛の糸にこころくらい、そしてその余りに関してはタクティクスオウガに全力投球しているこのブログである。まあ世の中広いので、こういうブログが一つくらいあってもよかろうと思っている。しかしタクティクスオウガに関しては日頃ネタがないネタがないと常々思っていて、とっくにあらかたネタは出尽くしたかな感がある。
 そういう中、脳味噌を雑巾ばりに絞りに絞った末に時々一滴くらい零れ落ちるものを見ての喜びはひとしおといった感じがある。


 ・で、多分このバカとクズに関しては、汎用性が非常に高く、ほぼ何にでも当てはめることはできるし、それっぽく物語ることは可能。それがどこまで真実か、真実に到達しているかは不明だが、とりあえずそれっぽく物語ることができ、しかもそれがそれなりの説得力があるというだけなら非常に強いものである気がする。


 ・そういうわけで結論から書けばLはクズで、Cはバカである。


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 Lルートは自民族を虐殺し、その罪を敵になすりつける。もはや人間のクズの所業だといえるが、それを後押しするのはそうでもしないと滅ぶという事情であり、そういう差し迫った状況があり、全滅するかしないかという背景があれば誰だってやるだろうという事情がそれを後押ししているといえる。決してバカではない、しかしその目的のために人倫に悖る行いをしたということは常にその人生にくっついてくることになる。仕方なかったから虐殺しましたで許される性質のものでは到底ないのである。


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 一方のCルートはその虐殺には反対する、しかしそれはつまり道徳のためなら滅亡もやむを得ないという判断があり、いや道徳を守るのはけっこうだがそのためにみんなで仲良く滅ぶというのは一体どうなのかという疑問と批判とが常に付きまとう。自らが滅ぶ可能性を高めるくらいだったら普通はあがくよねえという意味ではこの判断はかなり普通ではない。常識的な判断を欠いている。そういう意味においてこいつは「バカだ」と判断をせざるを得ない。

 ではNルートは?

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 これこそまさに「バカかつクズ」な領域であり、虐殺に反対して逃げたという「バカさ」が前提としてまずある。そしてその真相を知り、追手に命まで狙われていながらなんとその組織に戻るという決断をするのである。滅亡がチラついても正義を唱えるだけの余裕がまだあった、しかしさらに状況は差し迫っており、このままではみんな仲良く滅びかねない。
 だけどこの敵と手を組めば、この難局は乗り切れるかもしれないのだ。そうして少なくとも表面上は過去を全て水に流して手を組むということになる。しかしそうなると、今まで主張してきた正義はどうなるのか、誰もが知っているわけではない虐殺の真相はどうなるのかといえばこれはもはや説得力は壊滅的なものとなると言っていい。なんといってもそれを水に流して相手と再び付き合える程度のものでしかなかったことを自ら明らかにしたに等しいわけだから。そうして「バカさ」は捨てる……自らの生存のためなら多少小利口になるのもやむを得ないというわけである。
 そして同時にクズを許容する。今自らが生存のために主張してきた正義をへし折ってまで、自分の命をつけ狙ってきた相手と付き合おうとしている。死んだらおしまいだしそれはもうやむを得ないよね、という意味では、相手のしてきた虐殺とその論理を許容しているに等しいのである。一言で言えば、その時点で「同じ穴のムジナ」になったに等しいと言える。



 ・そうしてバカさとクズさを兼ね備えたNルートだが、その選択をしたことによるマイナスというのは常に付きまとうことになる。
 まず虐殺への加担を断ったことによる「裏切り者」の汚名は組織に戻ったとしても常につきまとう。組織がやったことは確かにクズだが、クズにはクズの事情も理由もあるわけで、それに伴う連帯感もある。そういう意味では、それを拒絶したデニムは完全にクズにはなり切れないし、あるいはなり切れなかったという資格の喪失と中途半端さ、そして「こいつまたいつか拒絶するのでは?」という不安定感、こうしたものを常に抱えていくことになるのである。

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 そして自らの滅亡の危機に際して主義主張を翻したわけだが、その時までは「虐殺反対」、つまりは「クズとは付き合えない」という主張があったわけである。自らの地位も名誉も捨てて、命の危機すらあるがそれでもバカならバカなりに、クズを糾弾することはできたし、その結果その主義主張の元に集まった仲間たちがいる。「バカ」への共鳴であり、確かにバカではあるが非常にそれは道徳的であり、人倫に沿ったものだといえる。


 ところがそこで組織に戻るとなると、その主義主張は一体どうなのかということになる。
 クズではなく、つまりはバカだった。それは反クズ派を意味した。
 ところがその旗印を捨てて組織に戻ることを選ぶ。つまりはバカでもなかった。こうなるとついてきた仲間たちは一体何の旗印のもとにいるのかという話になる。反クズ派でもあるんだけど、同時に反バカ派でもあるとこういうことになる。つまりこの時点において、クズであることとバカであることとは矛盾せず、そのいい点、利点についてはおいておくとしても(まあ生存が保たれた、死ななくて済んで良かったというところだろうか)、少なくともそのマイナス点においては両方得ているということができる。


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 何しろクズでもあり、バカでもあるんだから。クズになり切れなかったバカでありながら、バカを貫くだけの意志も力もなかったクズでもあると。こうなると組織にいたとしても村八分だろうとなるのは自明である。
 それを「中庸」とすれば、どれだけ「クズでありなおかつバカでもある」という中庸のマイナスが大きいのか。ほどほどのクズでありほどほどにバカでもあるということのデメリットというものがいかに大きいか。これならまだクズを貫くか、バカを貫いた方が余程人生は生きやすかっただろうと思われるほどである。この点に関してはNルートの考察で書いた点と繋がると思われたので、リンクだけ貼っておく。





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