詰み感と全能感





 ということで最近連日書いているがQuoraのあれ。

 何回読んでも得られるものがあるというか、興味深いというか。新たな感想が湧いて出るというか。一種の天才だったんじゃなかろうかと思って見ている。


 ・その反面真逆な感想も持っていて、というのはこの現代という時代において余程特殊なケースは除くにしても(これがそれに入るのかどうかはわからないが)全く自己実現していない人生なんてものがこの世にあるのだろうか?と思って見ている。ほぼすべての人間が自分自身の望んだとおりの人生を望んだとおりに生きているというのが現代という時代の特徴なのではないだろうか。

 例えば出勤、あーめんどくせーと思ってもそれが結局はベストだとわかっているからきちんと出勤する。
 ここにいたらダメ人間になる、人間腐ってしまうと言いつつもずっとそこにいる。そのぬるま湯から出て一人で挑戦する生き方がいかにきつく険しいかをわかっているからこそ人はぬるま湯に留まる人生を選ぶ。挑戦よりはぬるま湯を、そして毎日不平不満を言える特権を持った人生を選んでいる。
 休日がきたらきっとオレは勉強する、努力するぞ!やってやる!と思ってみても休日がきたら疲労が祟って延々寝続ける。まあ疲労回復も大切だからなと言いつつもそれを繰り返し、繰り返しているうちに5年10年と経ってしまう。ああ、しまった5年も経ってしまった、しかし今日のオレは違う、きちんと一冊読むぞ!と思って見てもそれは続かない。そういうことを延々繰り返す。

 こうした現象の意味とは何なのかと考えるにつれて思うのは、人は自由だし自分の人生を決定できる力を一人一人が持っているのに、いやもっているからこそ、その力をフルに使って確かに自分自身の望むような人生をきちんと一瞬一瞬単位で確かに選び取っているということ。多分これで99%くらいの人の99%の人生は割り切れるのではないかと思われる。そしてオレの人生クソだ、環境が悪い、運が悪い、もっと才能があれば、宝くじさえ当たっていればと言い続けて死んでいく、死んでいくんだけど別に死を選び取っているわけではない。それは結果に過ぎず、きちんと生を一瞬一瞬きちんと選んだ果てに死んでいる。つまり皆等しく平等に時間と自由と権利とが与えられ、それをフル活用した末に、理想と現実を一致させて生き、そして死んでいく。確かに現代っていうのは不幸な時代かもしれないが、果たしてこんなに理想と現実とを一致させたまま畳の上で死ねる、それが許されるこんな時代がいまだかつて歴史上あっただろうかと。
 しかも「不幸」の皮をまとったいわば環境や才能の被害者としても認められる。そうか悲しかったね、苦しかったねとなる、なるんだけどそういう理解も得られるという意味ではこの上ない幸福な時代だともいえる……つまり不幸の皮をまとう権利を得た幸福感すらもある。だから「不幸」とセットでそれへの「理解」もあれば「共感」も得られる。なんて幸福な時代なのかと思ってしまう。


 ・でも果たして「不幸」や「理解」「共感」は本当に必要なのか?と考えてみるに、多分本当はほとんどの人が絶対にこれらが必要だなどとは全く思ってないんじゃないだろうか。しかしそうしたものを手一杯持たされて、まるで葬式の花束や線香のように知らず知らずそういうもんだと手渡されていく、そういうもんだと思っているうちに捨てることもできずに立ち往生、そして死ぬまでこれらを三種の神器セットのようにかき集めるようにして生きるハメになってしまうんじゃないだろうか。

 そしてそれが恐らくは「箱」の実態であって。何かが足りない、何かがおかしいというのは薄々誰もが気づいているが、しかしそれが何なのかはわからない。新しく何かを持とうとしても、既に手一杯の「花束」だの「線香」だのあるいは「数珠」だのがあるわけで、これ以上持てない。そんなスペースはないし、余裕はない。そうした事柄というのが「詰み感」というものを為しているものなんじゃないかと思える。何かが足りないし、何かが必要だとわかってはいるんだけど、それが何かはわからないし、そもそも既に手はいっぱいで持つこともできない。わからないし持てないという二重性というようなものがある。何かはわからないんだけど、何かが確かにあって、しかもそれが異常に重苦しいと。窮屈なんだけど、なぜ窮屈なのかは全く分からない。


 長くなったから続きはまたにしよう。





この記事へのコメント

  • 高広

    今回も非常に共感できる記事でした。考えていることがホルオモンさんとかなり似ている部分があって、勝手ながらシンクロニシティを感じています(笑)
    Quoraに掲載されていたブログ、実は4年前くらいに読んだことあるんですよ。ネットサーフィンしていた時に何かのきっかけで発見して読みました。
    その時の感想なんですが、ちょうどQuoraで回答されている感想とほぼ一致しています。私だけではなく、おそらくほかの多くの方も同じ印象を受けるのではないでしょうか。
    28歳で自殺したこの方なんですが、ブログの記事を読む限り、決して地頭が悪いとは思えないんですよね。自分のことを、この人なりの味のある文章で表現している部分も、自分でブログサイトを作ってインターネット上で広めている部分もそうです。まして、高校中退で10年間?引きこもっていながらでも、このような感じで自分を表現できている点。
    最近だと、大卒の方でも文書を書くのが苦手だという人は少なくないと聞きます。
    28歳ならいくらでも挽回はできたと思います。今の日本の年齢の中央値は50歳近いですから。
    そうであるにも関わらず、この人自身が自分自身を徹底的に痛めつけて、呪って、被害妄想で苦しんでしまった結果、自殺を選択してしまった。とても悲しいお話です。でも、こうした状況は多分、今の日本だと半径1km以内で起こっていても不思議ではない気がします。
    こうしたことへの解決策なんですが、これはモロヘイヤ栽培で書かれてた解決策に同意です。
    幅広くいろいろ挑戦してみる!(笑)非常にシンプルなんですが、シンプルだからこそ、そこから人間の可能性の開き方を自分なりに体得していけると。挑戦といっても、ランニングを習慣化してみるとか、本を月に〇冊読んでみるといった、一人でこっそりできて、自己完結するものから始めればいいと思うんです。今の時代だとひっそりやっていた副業が、本業になっていたなんて事例も多く見受けられますが。
    あとは開き直りですかね。「自分は馬鹿だろうが、無能だろうが、自分の人生を楽しく生きてやる!法律に違法してねぇんだろうから、勝手に文句いってんじゃねぇぞ!」ってな感じで(笑)
    ホルオモンさんのモロヘイヤ栽培のお話で思い出した動画があります。youtubeの、為末大が語る「限界の正体~自分の見えない檻から抜け出す法」という動画です。この動画内でスランプから抜け出せる選手の特徴は「遊び人」と語っていたことが印象的でした。
    真面目な選手は、自分の競技と関わりのある人たち、同じ世界観を持っている人たち、で人間関係が構成されやすくなっているから、自分の既に持っている世界観を抜け出しにくく、スランプから抜け出しにくい。それに対して「遊び人」は多種多様な人たちと関わる傾向があるため、自分とは異なった視点から人生や競技のヒントを得やすく、スランプから抜け出しやすいと。
    ピンチはチャンスという言葉がありますが、ある意味これはそうだと思います。「人生詰んじゃった、、、」「どうしよう、、、絶望」といった人生イベントはそりゃきついです。やりたくないです。人類皆が、理想の世界で生きれればいいのにと思います。でもそうしたピンチになるからこそ人生に対して本気モードになります。でも、そうして本気モードになって絶望を一変させて、自分の勲章にできたときというのは、人生で最高の宝になることは間違いないと思います。人間の底力が、自分にも確かに備わっていたんだという自信にもつながります。
    そうした経験を若いときにできたらマジで鬼に金棒ですよね!でもできることなら、やりたくないなぁとエゴは言いますが(笑)
    長々とコメント失礼しましたm(__)m
    PS:普段スポーツ観戦とか一切興味ないのですが、甲子園で地元島根の大社高校の試合けっこう感動しました(笑)もちろんどの高校の子たちも頑張ったことには変わりないのですが、公立かつ地元の子たちで構成されている野球部が、偏差値75で裕福な子たちが多く在籍しているだろうと勝手に予想される早稲田実業の野球部に勝ったことはなんだかうれしかったですね。

    2024年08月18日 23:19
  • きんた

    コメントありがとうございます!

    >Quoraに掲載されていたブログ、実は4年前くらいに読んだことあるんですよ。ネットサーフィンしていた時に何かのきっかけで発見して読みました。

    ①これ非常に驚きました。その手があったか!ということで検索して見つけまして、今読んでます。もう終わる気でしたが、続編書こうかなと思ってます(笑)


    >28歳で自殺したこの方なんですが、ブログの記事を読む限り、決して地頭が悪いとは思えないんですよね。自分のことを、この人なりの味のある文章で表現している部分も、自分でブログサイトを作ってインターネット上で広めている部分もそうです。まして、高校中退で10年間?引きこもっていながらでも、このような感じで自分を表現できている点。
    >最近だと、大卒の方でも文書を書くのが苦手だという人は少なくないと聞きます。
    >28歳ならいくらでも挽回はできたと思います。今の日本の年齢の中央値は50歳近いですから。

    ②能力非常に高いですよね。果たして同じ境遇でこういうことをできるだけの人が果たして何人いるか。この人を叩ける人の方が逆に同じ境遇になったらとっとと自殺するんじゃないかなと思います。この人の指摘は確かに正しいなと思ってみてました。確かに単なるラッキーがこの人を叩く権利はないなと。


    >こうしたことへの解決策なんですが、これはモロヘイヤ栽培で書かれてた解決策に同意です。
    >幅広くいろいろ挑戦してみる!(笑)

    ③いやホントまさにこれなんすよ!(笑)シンプルなんだけどこうしたものをたくさん知っていてそれにまつわる小技を知ってて経験豊富でいつでも成功できるという、さらには見た動画の数、実践した数、それらの多さが人生詰まないためにはけっこう重要なんですよね。選択肢が豊富にあるとなんかいろいろ世話しないといけなくなったりするから(笑)、いろいろ忙しいんですよね(笑)


    >あとは開き直りですかね。「自分は馬鹿だろうが、無能だろうが、自分の人生を楽しく生きてやる!法律に違法してねぇんだろうから、勝手に文句いってんじゃねぇぞ!」ってな感じで(笑)

    ④これも非常に大切ですね。酒でも飲んだように気を大きくして生きるって大切だと思いますよ。そうでないと、正気だとこの世はなかなか生きにくいようになってんじゃないでしょうかねえ。


    >ホルオモンさんのモロヘイヤ栽培のお話で思い出した動画があります。youtubeの、為末大が語る「限界の正体~自分の見えない檻から抜け出す法」という動画です。この動画内でスランプから抜け出せる選手の特徴は「遊び人」と語っていたことが印象的でした。

    ⑤これはなんかよくわかりますね……ちょっと非常に重要なことを指摘してもらった気がするので、これ動画探してみます。


    >ピンチはチャンスという言葉がありますが、ある意味これはそうだと思います。「人生詰んじゃった、、、」「どうしよう、、、絶望」といった人生イベントはそりゃきついです。やりたくないです。人類皆が、理想の世界で生きれればいいのにと思います。でもそうしたピンチになるからこそ人生に対して本気モードになります。でも、そうして本気モードになって絶望を一変させて、自分の勲章にできたときというのは、人生で最高の宝になることは間違いないと思います。人間の底力が、自分にも確かに備わっていたんだという自信にもつながります。

    ⑥これは本当におっしゃる通りだと思います。こんなコメント欄で言ったらもったいないくらいの名言だと思いますよ(笑)多分一生そういうのに触れない方が人生はラクチンなんでしょうけど、でも真に充実感に触れられる資格を手に入れるのは挫折を得た方なんじゃないでしょうかね。そりゃあものすごくマイナスですけど、マイナスの大きさゆえにプラスもあると。


    >そうした経験を若いときにできたらマジで鬼に金棒ですよね!でもできることなら、やりたくないなぁとエゴは言いますが(笑)
    >長々とコメント失礼しましたm(__)m

    ⑦いやいや、私もできるなら避けて通りたかったですがまあ食らっちまったもんはしょうがないし。平凡でも楽しく日々を送るのと、絶望でもその先に最高の美味なる充実感がある方を選ぶのか……いや選んだじゃないな。なんかある意味見えない力によって「選ばれた」くらいの認識でいますけどね。その方が前向きでいいじゃないですか(笑)


    >PS:普段スポーツ観戦とか一切興味ないのですが、甲子園で地元島根の大社高校の試合けっこう感動しました(笑)もちろんどの高校の子たちも頑張ったことには変わりないのですが、公立かつ地元の子たちで構成されている野球部が、偏差値75で裕福な子たちが多く在籍しているだろうと勝手に予想される早稲田実業の野球部に勝ったことはなんだかうれしかったですね。

    ⑧大社の勝負、甲子園でもなかなかお目に掛かれない名勝負が多数あって驚きましたね(笑)
    バントを見事に決めたり、敵の監督の采配がドンピシャで見事に決まったりとまあ見ごたえがありました。あんな見ごたえある勝負を見れて本当に眼福というか幸せな時代だなあと思ってました。
    2024年08月23日 01:12
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