久々にQuoraから。
この話ものすごくよくわかるなーと思った。
・考えて見れば我々は小学校の頃から学校という「箱」に入れられてそこで生活を送る。
低い天井だなと思いつつも、なんかまあそういうもんなのかなと思いつつ6年過ごす。
そして中学校に入ったら自由度が増し、あ、こうやって人生って天井が上がっていくのかもという期待感を感じる。高校に入っても同じ。そういう期待感を増したいのであれば大学に行くという手もあるだろう。
しかし結局はそれがニセものの期待感だったということにいずれは気づかされる。いつまでも天井が高くなっていくなどということはない。そして例えば工場勤務とかして見るとわかるが、工場の終業時には恐らくかなりの場所で学校の終業のチャイムが鳴る。つまり学校は工場という就業システムとかなり連結していたということになる。低い天井感、重苦しい天井感、この先も澄み切った晴れ晴れとするような突き抜けるような空の青さってないのかな、そういう爽快感を感じることが果たして人生であと何回あるだろうなどと思ったりもする。
なんというか、そういうどんよりとしたまるで押しつぶされそうな天井の狭さ、重苦しさ、空気感の重さ。そういう文脈でこの話を読んだものだった。
まあ今幸いにして完全に突き抜けているんだけど(笑)、しかしそれも運が良かった、あるいは環境が良かっただけの話で少し違えばこの話はオレの話だったんじゃないだろうかと思うし、多分こうした境遇に近い誰かは普通にいるような気がする。それこそ死んだ方がマシだと思っても全く不思議じゃないような現実がゴロゴロしているし、よく生きているなあと傍から見て思うような人生も決して少なくない。
そういうわけで「詰み感」というキーワードで肩られるこれに関して思うのは、なんとなくだけどそれとずっと対峙してきた気がするから何かを言える気がするからこうして書いているんだが、詰み感はチャンスだってことだ。誰もが同じで低い天井を前にして、こういうもんかをと思っているし、諦めているし、適応しようとしている。だけど実際のところはそんな箱がなくなったって人生は続いているし、青い空は広がっていたりする。となると、結局箱を抜けた先にあるのも箱、箱の先にある箱というのは幻想だっていうことだ。そういうある種の洗脳があるということ。
そして確か20年前の国語の何か評論で読んだんだが、
「日本人はないものをあると認識できるようになれば救われる」というような話だった。当時何言ってるんでえと思ったものだったが、今思えばかなり優れた評論だった。日本人は確かにないものをあると思い、あるものをないと思う、そういう錯覚の達人みたいなところがある。例えば都会に行けば何でもあると思うが、しかしそれも田舎から集めたものでできている。田舎には何もないと思うが、しかし全てのものは田舎から生まれて運ばれて都会に出てきている。本当は何でもあるのは田舎であり、都会には何もないのだが、そういう認識であり錯覚というものはとうとう長年変えられることがなかった。だから人生に夢も希望も「ない」というのをもし見出すとしたらそれはかなり正しいと思う。正確だと思う。だからこそ田舎に行けと思う。あるところにはなく、ないところにあるということを徹底的に追究して見ろと思うのだ。そうすれば意外とこの世界は豊かで、まだまだ未知の領域でありフロンティアでありやるべきことすべきことはたくさんあるじゃないかという発見があるじゃないかとなるんじゃなかろうか。
まあこんなことを書いたところでどこまでというものだし、そもそも死んだ人はもう戻らないのではあるが、その詰み感というもの、なんかわかる気がするなあと思ったんでなんか書けることを挑戦的に書いてみようと思ったものです。
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