孫策について。
200年に26歳で死亡、191年に父の孫堅死亡で194年に袁術からの独立。
孫策がこの短期間で一体どのくらい版図を広げたかについてはこのサイトがわかりやすいかなと。
江東の小覇王と呼ばれた。小覇王というのは覇王、つまり項羽という人物を念頭に置いた表現であり、項羽の再来という感じ。
父孫堅が劉表に殺害された後に袁術の元に身を寄せることになる。そして父の形見とも言える玉璽を質として兵を借りることに成功、そして一気に江東における勢力を広げることに成功する。
まだ若かったが、やり方が徹底的なところがあり皆殺しなどをよくしたためによく人の恨みを買った。
そして自身を文武共に優れた優秀な人物であると自認しており(まあ確かに実績は文句ないのだが)、そのため他人をよく見下す傾向があった。そのため、狩りなどの時に独断行動が多く、それを狙われることになる。つまりオレほどの天才に敵うやつはそうそうおるまいということ。
三国志の一騎打ちというのは実際には数少ないようだが、そのうちの一つというのが孫策と太史慈の一騎打ちであり、いかにも武芸に秀でており自信があったということがよく伝わってくるかのようである。
短期間でこれだけの大成功を収める。劉備にとっては喉から手が出るほど羨ましいものだっただろうが、実際はなかなかそううまくはいかない。
というのも陸康という人物とその一族を皆殺しにしたことがあり、そのため基本的に陸一族は孫一族とは仲がいいとは言えない。孫策暗殺もこの恨みが元だと言われている。このとは陸一族である陸遜という人物に大きく関わってくる点であり、孫権の代に大きく暗い影をもたらしていると言ってもいい。
・そして弟である孫権の代になる。
孫策の死後だから200年から252年の52年間ということになるのだろう。
222年に劉備を夷陵の戦いで陸遜が破り、これはもう呉の名将であり大都督であると称えられることになる。
そして250年、二宮の変が起こり、呉の謎のお家騒動が勃発するのだが。
この時にこの呉の名将、陸遜は謎の憤死をすることになる。
このことをざっと考えればこういうことになる。
孫策が陸康ら陸一族を皆殺しとする。それを恨みに思った陸一族が孫策の暗殺を企てる。そして孫策が殺害され、孫権は王になる。これが200年。
そして222年、呉の危機であり蜀許せんという声が上がったころに陸遜が抜擢され、周瑜・魯粛・呂蒙の流れを継ぐ正統の後の大都督として陸遜が登場することになり、そして火計で蜀を大いに破る。呉と言えば陸遜であり、呉の大都督と言えば陸遜となる。
ところが250年、孫権が謎の後継者問題を引き起こすと。後継者と言えば普通は長男一択だが長男は既に死んでいた、そこで呉の場合は三男、しかしそこへ溺愛している四男を急に推し始めると。まあ典型的なやつである。そして孫権と陸遜が対立し始め、そこに讒言を入れるヤツが登場し、陸遜は疑われてそれに憤り死んでしまう。
これを70歳近くになってあの孫権も老いたなとみるのは容易いし、そう見てみると確かにそうだと思えるところも多々あるのだが、しかしそれによってすべてがキレイに割り切れるようにはどうも思えない。
むしろこうも考えられるのではないか。老いることによって孫権の強い自制心が消え、思ったまま、感情の赴くままに生きたい気持ちが強く出てくるようになったと。そういう傾向としての後継者問題があったとまず考えられる。
その次に、孫権には兄である孫策への思慕というものがあった。世には王が消えたために自分が王位に就けたことを喜ぶ例もあるのだが、孫権はそうではなかった。孫策の墓を立て直すとか、孫策へわざわざ王号を送るあたりいろいろ独自のこだわりがあったようである。そうなると、孫策を殺害した首謀者としての陸一族というものへの恨みがあったと考えることはできないことはないだろう。となると、当然陸遜を何とかしたいと考えた。となると二宮事件自体が陸遜を排斥するために敢えて用意されたものだと考えることもまあできなくはない。そして自分が生きているうちに、陸遜だけはなんとかしないといかんという思いが強くあったと考えられるのではないか。
そして自分が生きているうちに見事に陸遜を死に追いやることに成功した。しかし特にこの二宮事件あたりで大きく呉の功臣を減らしてしまい、そのことによる呉の衰退は避けがたいものとなった。その後は混乱が続くのだが……
・このことから何が言えるかって、孫策という人はまあいろいろあれど、間違いなく呉の基礎を作ることに成功したといえるほどの巨大な業績があると言えるだろう。しかし苛烈なやり方、特に皆殺しは大きな禍根を残した。それというのは孫策の死後50年経っても呉に対する大きい影響を持っており、しかも陸遜という人が呉の大都督を(あるいは都督ではなくなったとしてもその重要な地位を)30年も務めたというのも問題をより複雑にしたと言えるだろう。しかもその功臣中の功臣を、主君である孫権が排斥にかかるという異常事態である。孫策が基礎を築いた呉が見事に傾いているのだが、その要因を作ったのも孫策であると言え、つまり呉は孫策に始まり孫策に終わったと言っても過言ではないと言える。
華々しい版図拡大であったが、その裏には皆殺しに絡む恨みがあちらこちらにあった、しかもそれが50年間も燻り続けていた。その呉の巨大な暗部とでもいうべきものが徐々に呉を蝕んでいたというのが孫権の統治期間であり、孫権の人生そのものでもあったと考えられるのではないだろうか。
・ではこのことが我々が生きる際にどう生きるかである。
とくに我々が生きていると、「隣の芝生は青く見える」、そして他人の成功をうらやむ気持ちも当然湧き起ころうかというものである。たった5年足らずで江東を支配してしまった孫策の快進撃が他の諸侯にとってみればうらやましく見えることもあったろうし、不遇の劉備なんかには特にそう見えたことだろう。マジメに、コツコツ、一生懸命というのがあほらしく思えることもあるだろう。
しかし呉は孫策の死後50年経てば傾き始め、そして80年経った頃には消滅してしまうのだ。あれだけ華々しく見えたものももはや影も形もない。混乱を極め、功臣は次々に追放あるいは粛清され、何も残らなかった。まるで晋に降伏するためにあったかのようにすら思えるほどである。
華々しく見える突貫工事が常にベストであるとは限らない。孫策は生き急ぐあまりに基礎部分をおろそかにした。それが50年後の倒壊へとつながった。
コツコツと地道にやっていれば、歩みは遅くとも皆殺しによる恨みを買うという事態は十分避けられたのではないか。今は良くとも、50年後、80年後はわからない。
その事を常に思えということである。
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