劉備と諸葛亮と言えば三顧の礼だが、この話三国志の中でも最も有名な話の一つだろうが、有名すぎるのはいいとして、かえって退屈になりゃしないかと思いつつ。
・劉備が新野という城にいた時の話。
あちこちで劉備がやってきたのは傭兵軍団の隊長みたいな立ち位置だったそうだが、どこに行ってもこの集団は活躍してきたそうである。公孫瓚のところでも活躍、陶謙のところでも活躍し、陶謙からは徐州を譲られてもいる。まあ呂布に奪われたのだが。その後取り返すも、今度は曹操に奪われる。そして袁紹のところへ行き、ここでも活躍する。
どこへ行っても活躍してきたはずが、なぜかどこへ行ってもうまくいかない。
あちこちで劉備がやってきたのは傭兵軍団の隊長みたいな立ち位置だったそうだが、どこに行ってもこの集団は活躍してきたそうである。公孫瓚のところでも活躍、陶謙のところでも活躍し、陶謙からは徐州を譲られてもいる。まあ呂布に奪われたのだが。その後取り返すも、今度は曹操に奪われる。そして袁紹のところへ行き、ここでも活躍する。
どこへ行っても活躍してきたはずが、なぜかどこへ行ってもうまくいかない。
気づけば徐州まで完全に奪われている始末。
そして袁紹のために戦いながらも、袁紹に疑われ劉表に援助を求めに行くという体裁で袁紹のもとを去る羽目に陥るのである。
そして袁紹のために戦いながらも、袁紹に疑われ劉表に援助を求めに行くという体裁で袁紹のもとを去る羽目に陥るのである。
方や曹操は天下の2/3を取ろうかという勢い、方や自分は劉表の客分、新野という小城を与えられいかにも無惨な感じである。
なぜうまくいかないのか、ここのところが当時の劉備にはどうしても分からなかったそうである。
・その当時の劉備の話に「髀肉の嘆」という話がある。劉表の客分として二人で酒を飲んでおり、厠から帰ってみると劉備の頰に涙の跡がある。どうしたのかと聞いてみると、内股に肉がついておりますと。かつて馬に乗り戦場を駆け回っていた時には肉などついたこともなかったのにと劉備が言ったという話である。
劉表がこれを聞いて、こいつにはいまだに戦場を駆け回りたい欲求があるのか、野心がいまだ燻っているのかと警戒心を強めたという話もあるが、基本的にこれが言いたいことと言うのは、戦場で活躍するのは簡単であっても、その後どうなるのか、どうすれば安定した統治ができるのか、いや単純にそんないい立ち回りができるのか、いかにうまい立ち回りというものが極めて難しいのか、ということではなかったろうか。
・そんな劉備が諸葛亮に会う。
諸葛亮が劉備に説いたことは2つで、益州へ行きなさいということと、それによって天下三分の計としなさいということだった。
それが目から鱗だった劉備はぜひ諸葛亮に自分のそばで教えてくださいと言い、諸葛亮はそれ以降劉備の軍師となるのだが。
・そんな劉備が諸葛亮に会う。
諸葛亮が劉備に説いたことは2つで、益州へ行きなさいということと、それによって天下三分の計としなさいということだった。
それが目から鱗だった劉備はぜひ諸葛亮に自分のそばで教えてくださいと言い、諸葛亮はそれ以降劉備の軍師となるのだが。
これは恐らく中華という概念の問題であり、それが常に中原を狙うのと等しいというようなある種の固定観念があったが、そうではなく中原から離れた場所を狙えということ。これがかなり当時の劉備の盲点だった(というか当時の誰の目にとっても盲点だった)のではないかということ。敢えて中原ではなく益州という辺境の地、それもど田舎もど田舎を狙うなど、一体誰が考えられるか。正気の沙汰ではないようにすら思われてくる。
恐らく、人によってはこれを聞いて怒り出す人もいるほどの内容である。こやつ、侮辱しおった、許せん!オレが中原に相応しくないとでも言うのか!と下手したらなりかねない。諸葛亮はそういう危ないことを劉備に言っている。教えを乞うといえば聞こえはよいが、それが侮辱と極めて近い、もはや紙一重なものであるということである。
それを怒らずに聞け、きちんと拝聴し、素晴らしいと思ったどころか劉備陣営の軍師となってくれと言えた劉備は劉備でただ者ではなかったということである。
下手すればこやつわしを愚弄しおった!で切られて終わり。あるいは拝聴したふりをしてありがとうございますで庵を去るなんて選択肢もあったろうし、怒りのあまりに席を立つなんて選択肢もあったろうが、劉備はきちんと最後まで聞けたのだ。なかなかできることではない。
・そして曹操に対抗したいと思うものの、そう思えば思うほどなかなかうまくいかない。戦場で活躍しても、例えそこで勝ったとしても、例え連戦連勝でもうまくいかない。結果的には、気づけばなぜかいつも負けている。
そういう時は、押してダメなら引いてみろと。劉備にはそういう盲点があったのではないかと。肩の力を抜いて考えろ、あるいは目先のモノに囚われるなということでもある。
目先には圧倒的な曹操の勢力があり、その圧倒的な勢いを前にすると今度はこちらまでもやられかねない。しかも情勢はいかにも固まりつつあり、このままでは曹操の天下で大勢が固まりかねない。すると次は荊州がやられかねないからこそ曹操にどうしても目をやらざるを得ないのだが、そこから敢えて目を背けて他を見るというのがいかにも難しいこと。そういうことを説いたというのが目から鱗だったのではないか。
曹操の勢いが強ければ強いほど焦る、焦り足元がまるでじりじりと焼けるような思いがするものの、それでも敢えて曹操から目を背ける。そして曹操に負けじとするでもなく、中原を取らねばと急くのでもなく、第三の選択肢を選ぶと。己のなすべきことに邁進するということ。
三顧の礼なんて言葉でまとまる、最も有名である意味真新しさもないような話ではあるが。
これを今風に役立てるならばということで。
①諸葛亮と劉備とで交わされた会話というのが実際には極めて無礼で危うい話だったがそれを劉備は誤解することもなく怒るでもなくきちんと聞けたということ。言う方も言う方だが、教えを受ける側も受ける側だったがために初めて会話が成立しているということ。
②そしてそれに従い、曹操の勢いも注意は必要だがそれを無視して益州を取ることに専念したということ。戦うとか防ぐではなく、逃げるでもなく、己のやるべきこと、なすべきことに邁進したということ。
③中華といえば中原という固定観念があったが、しかし中原には既に曹操が圧倒的な勢力でいる。なんだけどそれはそれであって、その情勢下で第三の選択肢というものを見出すことに成功したと。
こうした内容というのは現代という生き方の難しい時代においてもある程度有効なものとして生きるのではないかと考えた。劉備という人がどう生き、どう悩み、そして諸葛亮という人はその劉備という人に一体どのような内容を説いたのか。ここにヒントがあるのではないかと思われるのである。
この記事へのコメント