この4は本来書くつもりはなかったんだが。
というか昨日まではもう終わって次のに行くつもりだった。
まあ毎度の思い付きの話である。
謎はすべて(いや大部分、いやけっこう、いや多少は……)解けた……かもなあ?という感じ。
・ツイッター見てるとこいつは一体何食ったらこんなこと思いつくんだろう?というような言説を数多く見かける。ところが今回はそれを言われる側に回りそうな話である。
ついでにクソ熱いうどん食って汗だくになってあっちいなクソ!と思って汗を拭いてたら閃いた。何食ったら?ってうどんでしたという話ですね。どうでもいいな。
というわけで、あくまでこれは毎度毎度の妄想劇場。
ついでにクソ熱いうどん食って汗だくになってあっちいなクソ!と思って汗を拭いてたら閃いた。何食ったら?ってうどんでしたという話ですね。どうでもいいな。
というわけで、あくまでこれは毎度毎度の妄想劇場。
いろいろ調べてきた言説とかを一切すっ飛ばしての(全無視)、あくまで完全なる妄想です。
①恐らくは薄々「何か」が起きているというのはわかっていた、としてもおかしくない。
①恐らくは薄々「何か」が起きているというのはわかっていた、としてもおかしくない。
というよりその場所に最も近いんだから、表に上がってくる前段階としての悪い噂の一つや二つは聞こえてきたとしても不思議じゃあない。というか、普通聞こえてくるだろうと。それをどう思うかはわからないにせよ。ワイドショーとかニュースより早く伝わっていても全くおかしくない。誰かを最近見かけないとか、誰かの顔色が悪いとか。そういうのって先生や教職員以上に速く学生間で気づくことっていうのはあるもんだ。
そういう前提ありきのバンドだったのがこのCymbalsだったんじゃないか?ということだ。
②そもそもがキューカンバーってなんなんだよと。
これの一曲目。
これはもう調べれば「キュウリ」って出てくるでしょうと言われるだろうが、言いたいのはそういうことではない。
これはもう調べれば「キュウリ」って出てくるでしょうと言われるだろうが、言いたいのはそういうことではない。
それはもう昔からわかってることであって。
問題は、なんでキュウリを題材にして歌作ってるんだよ(笑)ということ。
これがきっかけとなった。
これがきっかけとなった。
これを分かりやすく言えば、例えばネコってのはオスが必ずメスにぶん殴られるという某通過儀礼があるんだとか。つまりはネコのキュウリはものすごく痛いってことである。実際突起があって、それがものすごく痛むわけなんだがそれによってメスの気持ちをその気にさせるという機能があるらしい。ものすごくどうでもいいが、まあ要するにcucumberの説明である。
この歌詞、英語を聞ける範囲で取った人がいたのをそれっぽく訳すと
「誰かが言った、「あなたはそれ(キュウリ)を愛すべきです。
そしたらあなたは幸せになります」
彼女はその言葉を忘れないでいるべき
そして長い間の私の地獄(地獄かは自信ないが)
彼女はその言葉を忘れないでいるべき
そして長い間の私の地獄(地獄かは自信ないが)
本当に希望を持ってて、私は王子様を愛してます
もちろん白馬に乗って、私はその土地へ行きます
そこにはキュウリはありません」
もちろん白馬に乗って、私はその土地へ行きます
そこにはキュウリはありません」
キュウリが本当に嫌いなんだけど、白馬の王子様はいますと。
そして約束の土地へ行けば、きっとそこにはキュウリはないはずですと言っている。
「白馬の王子様にキュウリなんかあるわけないのさ!」(笑)という感じ。
③ニートオアシンバル
ニートかシンバルズか?シンバルズやるか、さもなきゃニートでもやるっきゃないねえ!じゃあ正義側で延々やります宣言。
「その問題」ってのはものすごく難しい。
発覚したらじゃあ誰が関わった?となる。加害者はともかく被害者が掘り起こされかねない。もう思い出したくもない人々を敢えて思い出させる結果になるかも知れない。正義は大切だけど、その正義は果たしてどこまで望まれた正義なのかはわかったもんじゃない。なら何も言わずこのままでとなる、それが新しい悲劇を生む、ああ、あの時手を打てていれば!となる。
そういう悪循環との戦い。戦っても勝っても不毛。だけどなんとかしなけりゃあ、でも何ができるのか?いや、何もできない、誰も望んでない。
しかし諦めたくはないという思いがある。
こりゃあもう戦うかいっそニートでもやるしかないなあ!と。
④盛大にスカる人たちという文脈
特にこれはYouTube見ないと全くわからなかったことだけど、MV見て初めて知ったがお笑い系のニュアンスを非常に色濃く入れている人たちなんだなという印象。どんだけでかいんだよというボールをバドミントンラケットで盛大にスカる。
かっこよく颯爽と階段は降りるものの、電車には遅れてしまう。あ、しまった乗れなかった!どーしよ!と笑う。本来乗るべき流れに乗り遅れた人たち、乗れない人たち、乗れない側であるということ。
そんな面と向かって戦う方じゃない、そんなに強くない。力もない。
しかし諦めたくはないという思いがある。
こりゃあもう戦うかいっそニートでもやるしかないなあ!と。
④盛大にスカる人たちという文脈
特にこれはYouTube見ないと全くわからなかったことだけど、MV見て初めて知ったがお笑い系のニュアンスを非常に色濃く入れている人たちなんだなという印象。どんだけでかいんだよというボールをバドミントンラケットで盛大にスカる。
かっこよく颯爽と階段は降りるものの、電車には遅れてしまう。あ、しまった乗れなかった!どーしよ!と笑う。本来乗るべき流れに乗り遅れた人たち、乗れない人たち、乗れない側であるということ。
そんな面と向かって戦う方じゃない、そんなに強くない。力もない。
だけど一緒に笑うとか、ズッコケて笑うとか今は辛いかもしれないけど過去にはいいことあったかもしれないとかを伝えることはできる。今が辛いなら、目を逸らせばいい。楽しかった過去に浸ればいい。そうでもして生きて欲しいと。
⑤フラッシュバック的な要素。
単純に映像の使い回しの多様にももちろん見える。
⑤フラッシュバック的な要素。
単純に映像の使い回しの多様にももちろん見える。
しかしこれは恐らくフラッシュバックとの戦い、忘れられない記憶との戦い。これは恐らく狙っている。どっかで見たなという風景が増えていく、フラッシュバックする。いやフラッシュバックさせる。
フラッシュバックとの戦い。フラッシュバックと同じ土俵であり平面で戦おうとする意志の表れ。
⑥「シンバルズって知ってる?」
「いやー知らないねえ」→(笑)
フラッシュバックとの戦い。フラッシュバックと同じ土俵であり平面で戦おうとする意志の表れ。
⑥「シンバルズって知ってる?」
「いやー知らないねえ」→(笑)
という。そのくらい知名度はない貧弱グループなんだけど、しかしもしもそこにメッセージを読み解くとしたら、弱いし力もないんだけど、でも諦めてはいないってこと。
多分こういうことを思うってのは、考えてみれば尾崎豊のダンスホールの見すぎと聞きすぎなのかもしれない。世情と歌とを妙に一致させたがるみたいな。
⑦違和感のある歌
多分こういうことを思うってのは、考えてみれば尾崎豊のダンスホールの見すぎと聞きすぎなのかもしれない。世情と歌とを妙に一致させたがるみたいな。
⑦違和感のある歌
あくまでそう思って見るならばだが、恐らくこれほどストレートで直接的なものは他にないのでは。
そして恐らくこれがいいたいことは、というのを類推するのは、陰謀論チックではあるがそこまで外れてはいないような気もする。それはつまりシンバルズの本質としてということ。
最後に「あいつまで来た」なんだが、もうすでにお客さんはきている、というか普通時間を合わせてくるはず。なのにそこから「あいつ」がやってくる。「あいつ」なんだから、遅刻はあり得るとはいえあまり歓迎されていない節もある。違和感のある歌詞。
⑧あなたは魔法を信じますか?
https://www.youtube.com/watch?v=LzOwuxuL2EM&list=OLAK5uy_mcdEf-de3j7KXGjG0fyFHG2PBa8WtXvd4
マジック、すなわち魔法とはなんぞやというのがこの歌を通して全く明かされない。
しかし確かに「必殺の魔法」がどうやらあるらしい。
多分それを尋ねた人はその必殺の魔法を知りたいと思うのだろう、それもどうしても知りたいと思うのだろう。
マジック、すなわち魔法とはなんぞやというのがこの歌を通して全く明かされない。
しかし確かに「必殺の魔法」がどうやらあるらしい。
多分それを尋ねた人はその必殺の魔法を知りたいと思うのだろう、それもどうしても知りたいと思うのだろう。
しかしとうとう明かされない。
というよりそんなものは恐らくはないのだろう。しかしそんなことは最初からわかりきったことであって。でも「あるんだよ!」「これで終わりさ!」
といい続ける、なぜそう言うかって、「ない」って言ったら救いがなくなってしまうから。示さないんだけど、でもあるんだよ!ということで希望は示される。否定はされない。それが否定されないということ、それこそ「優しいウソ」なんじゃないかということ。そしてそこに優しいウソがあるということが魔法なんじゃないのか。
⑨そして事件が明るみに出て、大規模な事件だったことが発覚し、次々と裁かれる。
恐らくそこで解散することを決意する。それはシンバルズの存在意義だったんじゃないか?ということ。辛いことがあっても寄り添う、戦えないけど、でも優しくはありたい、できることといったら音楽くらい。だがせめて音楽の世界でだけははっちゃけたい。徹底的に戦い続けたい。
恐らくそこで解散することを決意する。それはシンバルズの存在意義だったんじゃないか?ということ。辛いことがあっても寄り添う、戦えないけど、でも優しくはありたい、できることといったら音楽くらい。だがせめて音楽の世界でだけははっちゃけたい。徹底的に戦い続けたい。
そしてラストライブ。
2004年の1/20。誰もが唐突でよくわからないうちになんか解散してたと言っていたが、もしもこれに敢えてそういう文脈で意味を見出すとしたら……ということ。推測を並べて数珠つなぎにして思ったのは、その使命を終えたんだなと。だから解散する……それというのは結成当初から決まっていたんじゃないかなと。
何を食ったらこんなひねくれた内容が書けるんだ!といわれそうだが、まあそんな気がしたんだよなあということ。
しかし文学の聖地巡りとかに使われるなんかお手軽で最も嫌いなやり方だったのに気づけばそれを使ってるなあというのが複雑な心境ではある。時と場合によっては意外と効果的ってことなのか。
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