モンキーターンというこの話自体、常々いかに勝つかが問われており、勝つためになんでもしていいのか、それとも節度を持つべきかが問われている……まあ要するに具体的にはダンプってこれは一体どうなのか?ということが常々問われている。勝つためとはいえ、他人や自分を危険に晒すってのはどうなのか?ということである。
・小池さんという人は波多野の師匠だが、この人はかつて有望と言われた弟子の艇に乗り上げて怪我をさせ、引退に追い込んでしまった過去がある。その罪悪感と負い目がこの人の人生に暗い影を落としたのは間違いないし、それでも引退することなく競艇をし続けることを小池は選んだ。
つまり誰一人もう責める人はいなくても、みんなが忘れても、延々己を責め続け、痛めつけ、苦しみ続ける道を選んだということでもある。そうしたことはあまり表に出てくることはないが、波多野は青島に「オレはお前を競艇選手の中で2番目に尊敬してる。1番は小池さんだけど」という言葉を言ったことがある。この言葉からも薄々察せられるものがある。身近にいて常に小池さんという人とその厳しさを目の当たりにし続けてきた波多野にとって、小池さんはそれは厳しかったに違いないが、同時に小池さんが誰よりも厳しかったのは他人である波多野に対してではなく、本当は自分自身に対してなんだというのを波多野が察するのはそこまで時間がかからなかったのではないだろうか。人としても競艇選手としても安易な道を選ぶことなく、かといって愚痴をこぼすでもない。何にしても淡々とやり切るところにとてつもない厳しさがあったのだろう。
・波多野は致命的なケガをするもなんとか再起する。
そのケガを負わせたのは伊峡(いさ)くんという選手だった。彼は最終戦で賞金王の優勝戦に出てくるほど強い。しかし波多野にケガを負わせた時点ではほぼ無名の選手だった。
波多野にケガを負わせてしまった時点で、彼は小池さんと同じ立場に立たされることになる。
どうしてこんなことになったのか、なんてことをしてしまったんだということから、不運だった、たまたま自分が乗り上げただけだ、波多野さんだってレースに出ていたんだから覚悟はあったはず、不運だった、運が悪かったんだ、誰にでも起こり得る、波多野さんだって立場が違えばきっと被害者ではなく加害者だったに違いないということまで様々に考え続けたに違いない。
そして最終的にもう取り返しがつかないと当然引退まで考えたことだろう。それでも結局は競艇選手を辞めることはない。しかし辞めない以上この不毛な議論は続く。その不毛な議論と戦い続けることを選ぶということが伊峡くんの選んだ道であり、それは過酷で険しい道だったのではないだろうか。
「(後遺症に苦しめられて)はあ……オレはこの左手にこれからずっと悩まされていかなくちゃならないんスかねえ……」とある時イライラしながら弱気になり呟いた波多野だが、そういう考え方はよした方がいいぞと長尾さんにたしなめられる。同じケガをした選手として、損した分取り返してやろうと思った方がいいと言われる。
そこで波多野はその通りだと思っていわばプラス思考を獲得したと言えるだろうが、そのもう一つの意味は伊佐くんを、あるいは小池さんを余計なことで(余計な一言で)追い込まなくなったということにあるのではないだろうか。小さいところだが被害者の意識と加害者の意識は全く異なる。他人の痛みに気を遣う小池だが、他人の痛みは他人にはわからない、だからこそ気を遣い、すり減らしていく面は確かにある。それは伊峡君も同じだろう。
まあある意味では強豪になりかねない他者の可能性の芽を摘む、そうしたら最強のライバルの一角が減る。勝ちやすくなる、それは自分として個人としての成績上では良くても、競艇競技としては廃れると。
あるいはレースに赴いた時に仲が良くていろいろ世間話やどうでもいい話から競艇の話でもできる仲のいい知人を減らす結果になり、それが競技の成績における波多野自身のマイナスへと繋がる効果も少なからずあるだろう。つまり結果的には少なからず自分自身の首を絞める結果を招く。そういう可能性であり道が絶たれたという意味は決して小さいものではない。
・そのくだりで波多野はプラス思考を獲得した……というと確かにそれはそうなんだが、そのプラス思考が(あるいはマイナス思考をやめようと思ったことが)間接的に伊峡くんという人の負った重荷を軽くし、彼の成長に繋がり、彼の持てる可能性を存分に発揮させ、その能力を開花させる結果に繋がったという描写は非常に面白いものがあると思う。図らずも加害者となってしまった、そしてその意識を拭い去ることがどうしてもできない、それでも持てる可能性を発揮しようと頑張った。それというのは案外小池さんの心に深い感銘を与えることの出来る描写になり得たんじゃないだろうかなあと。
小池さんと伊峡くんの二人がそういうことを腹を割って話し合う、なんていうことは作中とうとうないのだが。もしもそういう機会があったとすれば、もしかしたら小池さんはその心中の深いところでもしかしたら救われたのかもしれない。あるいは大したことではないプラス思考というこの一事が、その深いところでの救いという一点に繋がる可能性を、小池さんと伊峡くんの間に生んでいたとしたら。その意味というのは決して小さくないどころか何重にも渡って重層的であり、まさにそういう世界の深さと広さこそがこの世界の魅力なんだよなあというのを改めて認識させてくれる。
などとふと思ったという今日この頃。
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