考えてみれば死というやつもいろいろな要素があったりして一筋縄ではいかないものだったりする。
不慮の事故で一発なんてなったりもするし、なんでこんな目にとも思ったりもする。
で、辛くも生き残っても不遇続きでなにをやってもうまくいかない異様な時期というのがあったりする。
オレもかつて利き腕の握力が5キロになった時に病院に行っても「それが本当に落ちたものかどうかわからない」とか医者が言い出したり、レントゲン見てもある病院は靭帯がなくなってると言うし、ある病院は異状なしというしで無茶苦茶だった。かと思えば「5キロあれば働けるでしょ、なに甘えたこと言ってんですか」といって箸を握ることすらできないけど仕事はできる……というより握力5キロで箸も握れないけど仕事ができない理由がないという理由がないとかいう奇妙なことになったりもしたものだった。痛みが何ですか、みんな頑張って仕事してるんですよというけど、どう考えても当時の利き腕の靭帯を失ったオレほど頑張ってたやつはいない。
なんてことが思い出してみてもいろいろあったもんだ。当時は論破されて腐ってたもんだったが。
で、そういうことが続くとどうしても腐る。やってらんねーとかめんどくせーとか、まあそもそも主張を押し付けたりする連中に対して休んで回復させた方がいいという自分の判断が正しかった(当たり前だ)のは確かだが、その正しさをすんなり主張できなかったりするのだ。骨折してても腕があるんなら働けと言うのがこの世界である。で、投げやりになったりしていくうちにさらに悪い方に進んだりするものだが、そこでも諦めの悪さみたいなものはどっかに必要なんだろうなと。多分これ終わったらいいことあるはずだというような。希望とか楽しさを見出すというか。玉ねぎの皮を剥いても剥いても悪い部分なんだけど、でもいつかはいいことがあると思えるか、それともこのまますべて腐っているだろうと思うのかで人生の出たところは全然違ってくるんだろう、などとふと思った。
公孫衍(こうそんえん)という縦横家がいたが、確か手違いか何かで袋叩きにあった。
で家に帰ってくると妻が心配して見ている。ああもうこりゃダメだと思う妻に対して
「わしの舌はまだついているかいないか」
と聞いたと。でついてますと言ったら二カッと笑ってそれなら大丈夫だと言ったとか言わなかった、とかいう話が小説十八史略に載ってた。そのくらい自分のというか弁舌に自信を持っていたと。
不遇なことというのは起こる、あるいは起こることがある。不慮な事故は起きる。で、それを食らって腐るということもある。でもそれと同時に、どっかで腐らないというか、これがあると言えるものがあるとか、これがあるから大丈夫というものを持っているということというのは意外とバカにならないんだなあというようなことをふと思ったという話。
この記事へのコメント
ココ
医者に根性論言われてもなぁ٩( ᐛ )وって感じですよね。
きんた
> ココさん
>
> 腕の靭帯大変でしたね‼️
> 医者に根性論言われてもなぁ٩( ᐛ )وって感じですよね。
>