最近タワマン殺人が話題になっている。これについて思ったことを何点かまとめておきたい。
・まずよくある無敵の人事件と同じでひとくくりにして語られるものの、個人的には大きく違っていると思う。
無敵の人は勝手な私怨からただすべてをなくすということを選ぶ。京アニ事件にしろ、大阪のビル放火にしろ怒った、だからすべてを灰にして終了といった感じが強いが、この事件は少しニュアンスが違っているのではないかと思う。大金を渡した相手は悪人であり、そういう人間にお金を渡してしまった、悪人をのさばらせてしまった、その責任を取ってその悪人を滅ぼすものの自分も同様に滅ぶ。そこにはそういうものをのさばらせてしまった責任感というものがあり、その責任を取ろうとしているのではないかと感じ取られてならないし、憤りでただ突っ走ったようには思えなかった。しっかりと自らの犯した過ちに向き直り、そして今後の憂いを、悪人が更なる悪事を働けないようにしたという感じを感じたものだった。それというのは、この容疑者が非常に責任感が強い人だったという話と決して矛盾するものではないのではないかと思った。後述するけど、そういう責任感はオレにはないものだったという印象。
・なぜそんなことを思うかって、全く同じような失態をオレもやらかしてきているからであって。いやホントそっくり。オレも困窮した、助けてくれ ということで人助けに行ったんだがそれがウソで、いろいろなマイナスを含めてすべてオレに押しつけてとんずらという目に遭ったもんだった。実害としては200万程度だったけど、それが本当に膨れ上がって1000万超の損害を出した。そしてそういう手を打つことによって当人は20万だか30万だかの儲けを得ていたんだが、
「オレの20万はおまえの200万の負債より重い」
「オレの生きる価値はお前よりも10倍の価値がある」
という無言の主張をオレは感じたものだった。まあオレも迂闊だったんだけど、最近ようやくそのすべてのマイナスが消えたが、同時に10年吹っ飛んで消えた。あまり怒ると身体に影響が出るのであまり怒らないようにしているけど、まあたまにはいいだろう。人を殺せば、人を踏み台にすれば、人を騙せば金が出てくるという典型的な話で、ある意味この手のハシリを10年も前にやっていたようなもんだったなと今では思う。
・じゃあなぜこんなことが起こるのかって考えるけど、その根底にあるのは
「殺人はダメだ」ということ。
「殺人だけはやってはダメだ」今回の事件に関してもよく語られる。殺人した事件で被害者はアウトだと。結婚詐欺だろうがなんだろうが殺人した時点でアウトでしょうと。
そしてその「殺人だけはダメだ」が
「殺人でなければ何をやってもいい」
ということと表裏一体である、ということと無縁ではないように個人的には思っている。つまり論理的に認められていると。人さえ殺さなければ何をやってもいい時代になっている。窃盗や詐欺がなんだ、小さいことでいちいちがたがた抜かすなと。そしてだからこそ詐欺や窃盗がここまで横行しているのではないかと思っている。
①例えばここ30年書店の万引きといえばちょくちょく聞く話である。
「たかだか500円のマンガじゃねえか、1冊くらいいいじゃねえか、みみっちいやつだなあ」
「万引きしたかもしれないけど、あんたもお金が欲しいんでしょ、ほら500円、支払ったからもういいでしょ!」
という話をよく耳にするが、万引き、すなわち盗みの価値というのはその程度のものなのかというのはかなり疑問だと思っている。なにしろ書店はそれで生計を立てているわけなので、盗みでお金が入らないというのは店にとって死活問題である。
つまり盗みというのはたかが500円でピーチクパーチクいうなかもしれないが、書店側であり盗まれた側からすると
「死ね」というに等しいものだと言える。それこそそれを許していたら100人でも1000人でもやるだろうし、それが認められるわけがない。つまりいう方にとっては気軽な「死ね」だし、言われた方にとっては明日から路頭に迷いかねない文字通りの死ね宣言に等しい。つまり何かって、窃盗や万引きというものの本質は盗る方は気軽だが、盗られた方は死活問題であり、その重さは全く異なるということ。つまり窃盗で追い込むことは許されるが(「たかが500円程度でうるさく言うな」)、追い込まれて「殺人してはイケナイ」というのは全くフェアではないのではないかということ。方や500円盗っても「たかだか500円、殺人だけはいけないよ♪」なのに、盗られた側が追い込まれて死ね宣告されたも同然なのに激怒してはならないというのはおかしくないかと。
②島根という土地は窃盗がもともと多い県として知られており、中でも大根島という牡丹の産地で有名な場所があるが、ここは朝鮮人参の産地として有名だった。しかしこの朝鮮人参、できるのに10年かかるのに7~8年で窃盗団がやってきて毎年持っていかれていたのだという。そして当然儲けにならないので廃業するしかなく、そうやって産業が廃れていった経緯がある……と昔の同僚が世間話で教えてくれたことがあった。
本筋から言えば産業をやって、それが振興し利益を上げられるようになり、その土地や人々が潤うというのが理想のはずだが、窃盗団は根こそぎ奪っていきそうなると1円も利益にならない。これは文字通り「死ね」というに等しい。そしてその通りにその朝鮮人参産業は廃れてしまった。その産業に携わる人はみんな死に絶えたのだ。
そして同様なことが様々な場所で起きている。頂き女子だの山梨の桃やブドウ窃盗だの、鉄道関連の銅線が根こそぎなくなる、太陽光の導線がなくなる。なぜこうしたことが起こるのかって、恐らくその根っこには「たかだか窃盗くらいでグダグダ言うな」というものがあるとみているし、「殺人じゃないんだから別にいいだろ」という許容があるように思う。しかし朝鮮人参と同様に近い将来ここらへんのものというのは死に絶えるだろうなとみているところ。たかが銅線盗ってもいいだろと言うかもしれないが、それをやるということは実質的な「死ね」宣告に等しいと思うのだ。それを言っているわけではないのだが、やっていることは「死ねの宣告」に近いものがあると。
③で、そういう損害を出したわけだけど1000万とか2000万とかくらいならまあ何とかなるんだと思います。なんだかんだ言ったってそこまで莫大な金というわけじゃないし、いろいろ手段はある。
問題はそういう支払いがすべて終わりましたと。で何が残るかって後ろ向きな努力の果てに0地点に戻るわけだけど、本当に何一つも残らない。この世界マジでくそったれだったねという感想、誰も助けてくれない、当然自己責任でしょ、助けてやったのにオレを踏み台にして助かりやがったというようなこの世界に、その未来に一体どんな輝かしい希望が描けるの?ということ。これが最大の問題だと思う。オレもこの世界の本質というか本性を見てしまった感じがあって、何とも言えないんだよな。そういうものを知らない方がよっぽどこの世界は生きやすいように思うし、知らなければよかったというような事情がもしもあるとすればこれであって。
・窃盗とか詐欺ということの本質は何かって恐らく、そういう夢とか希望とか、この世界はいいものだとか、だからこそ頑張らなければならない、また来年もこうだといいなといったような価値観を全て根こそぎぶっ潰すところに問題があるのではないかと思う。人を踏み台にして生きればそりゃ生きやすいし他人なんてまさに便利なツールでしかない、そしてそれは正しいだろうけど、その正しさの果てに一体どんな価値観が築けるのかと。それは言って見れば「お天道様は見てくれる」というような価値観と対極的なものであって、「この世界マジで血も涙も救いもねえ」というようなもので。
精魂込めて作った朝鮮人参根こそぎ持っていく世界とか、桃やブドウもそうだけど、鉄道関連の銅線だって困る人がいようと知ったこっちゃねえ、オレはこれを売りさばいてウハウハだぜお前らは死ねということの告白に等しいわけで、そういう世界観の果てに一体何をするつもりなのかと。誰も通らないオレしか知らないクリア方法であり、まるでマリオの土管でいきなり何面もすっ飛ばして進むかのような爽快感はあるかもしれないけど、その爽快感は一体何を犠牲にして成り立っていてその爽快感は本当に必要なのかと。オレすげええええってなるかもしれないけど、それが一体何を引き換えに成立しているのかと。成果や結果、というより目に見える金は手元にはあるだろうけど、そこに金しかないという意味での文字通りの貧困であり概念や世界観の貧困があると思うし、日本の本当の病巣はそれではないのかとも思う。貧困の前に言葉の貧困であり、概念の貧困があるのではという。
いやちょっと殺人はともかくとして詐欺とか窃盗の価値とか意味を舐めすぎなんじゃね?と。
まあそういうわけで、なんかいろいろモヤモヤしたしこのイライラ感は何だと思ったのでちょっと書いてまとめてみたという。
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