差別について






 先日Quoraで非常に興味深い質問を見つけた。


 差別ではなく区別だという言葉は言い方を変えただけですかという質問に対し、解答者は
 「必要な差別はある」という事例を返す。
 日本人は部屋を貸してもキレイに使うし基本的に安心して貸せるが、しかし外国人はそこで何を仕出かすかわからない。従って日本人よりも高めに家賃等を設定すると。でもそれが根も葉もないことかというときちんとそれなりの根拠があるわけであり、それが嫌ならキレイに使えと。で、みんながキレイに使って信用が作られていけばそこまで高く設定する必要がなくなっていく。そういう意味での明らかな差別はあるんだと。これはもう区別ではないんだという話だった。この話、非常に目から鱗だった。

 そもそも「差別」ということに関して我々はかなり厳しく教育されてきた世代であるからかもしれない。
 差別ときたら「ダメ、絶対」、そして差別というものを必要以上に避けて通るようになったことによって「これは差別ではない、区別なんだ」と言い聞かせつつ生きるようになってしまっているが、薄々それが差別的なニュアンスを大なり小なり含んでいることは承知しながら生きている、しかし差別はダメなのでそこは避けながら生きるように出来上がっている。
 しかし本当に差別がダメだというのならこの外国人と日本人との場合に際して「差別はダメだ!!」といつも通りに頭でっかちに言って食ってかかるべきではないのか、という時にそういうものがたいそうメンドクサイってのもあるし疲れるから避けたいわけだが、そもそもそこまで差別はダメなのか??ってのもあるし、何よりこの説明の通りなので確かにという他ないのである。そもそもが異様なまでに汚くしていく外国人の所業が合わないのが問題なのだから。理屈や教育はともかく、実態は確かになあと思わざるを得ない。


 ・そういうわけで、差別というものにも一定の許容できる余地というものが見いだせるということが非常に重要だと言える。差別ときたらダメ絶対というのが当たり前だが、しかしそれは決して根も葉もないものだということまで意味するものではない。ナチス万歳とかユダヤ云々なんて言ったらそりゃ大問題だが、「根も葉もある差別」というものも中にはあるのである。
 そういう意味では「学歴差別」というものも誰の眼前にもありながらもその実隠された差別と呼ばれるようなもののひとつであると言える。「中卒」という言葉は今の日本では禁句だそうであるがそういう「差別的な」言葉を嫌って平等を打ち出し、学歴を隠したまま就職試験などをする例も中にはあるそうである。これは結果的に大卒や東大卒が多かったというのもどこかで話題になってはいたがそれも納得ではある。数年間余計に勉強しているわけだから。

 ・で、その先にいくと院卒(大学院卒)というのもあるのだが、これらの人材は大学院まで行って専門的に勉強し、その道を研究したプロのようなものだと言えるだろうが、これらの人たちが失踪する事例がここ10年くらいは多かったようだ。理由は簡単で経済苦である。奨学金で学んだはいいものの、30手前になって仕事をした経験がないというのを嫌気されたってのもあるだろうが、それに見合った給料を渋ったというのもあるようであり、その結果として院卒は失踪(というより自殺)に至ると。で、そういう事情を鑑みて「彼らは勉強はできるかもしれんし頭はそりゃいいかもしれんがバカだね」というような言説が多く見られたように思う。


 しかし彼らが本来率先していき、その専門性を活かしていくはずの分野はつまり全く開拓・研究されなかったということでもある。その結果、一時期は電化製品と言えば日本製だったものが今や日本製のものは大幅に駆逐されて行った始末。ものすごく有用でモノづくり大国日本の礎となるべき人材を見殺しにした結果、日本製品は駆逐されて行きそもそも外貨を稼ぐ力も大幅に失った。
 失ったのだが、「あいつらはバカだ」という自らの自尊心を高める言説だけは確保しており、まさに自尊心のためなら自らの首を絞め上げるという有様。


 ・ではなぜこうなったのか?と思うに、恐らく「差別、ダメ絶対」で差別というものに我々が向き合ってこなかったからではないかと思う。なぜ差別はそんなにダメなのか、向き合っていい差別はないのかといったようなことからすら我々が逃げ続けてきたことが実際には差別を助長していく結果を招いたのではないかと思うし、つまりは何かって「差別」というものを「差別⇔区別」的な極めて貧しい概念しか構築できなかったし、理解してこなかったことがここまで問題を大きくしてきたのではないかと思うのだ。そのレベルの低さこそが大きな問題を呼んだのだ。
 学歴はそりゃいろいろ問題を多く含む問題ではあるが、それでも確かに学歴は必要だと思う。それはまるで階段のようにあるべきだし、院卒はそれなりに勉強してきたろうから素晴らしいと、そしてそういう体系の上でしか成り立たないものや成り立ってこなかったものが数多くあることはまず認めないといけないのではないかと思う。そういう基礎としての概念の上でしか成り立たないものをがあるということは認識されるべきなのではないかと。


 ・と言っておきながらなんだが、大学は寝たり代返したりサークルやバイトや飲み会、それもわからんではないけど大学生活中何をしてきたかって「勉強です!」と元気よく答える、そして企業側としてもそういう経験の多さとノリの良さみたいなものを多く経験してきた人材を欲しているという側面もあるだけに、学びの場としての側面がほとんど重視されていないということもあって厄介な事情となっているのは確かなんだが。






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