ざまあみろ精神






 負の感情に向き合うってのは誰もやってないことのようだしそういうことは一生やらない方がいいような気もしているが、まあやらないよりはやった方が現状マシなのでやってみることにする。


 いつかも書いた気がするが、敵味方を分けるものってのは喜びを共有できるか、いやな現象をどこまで共有できるかが味方であり、その逆が敵であると見ることもできるように思う。
 司馬懿は諸葛亮が死んだと聞いたらこれ好機と喜んで攻め寄せたが、諸葛亮はそのことも見越しており逆に驚かされて、しまった計略だったかと命からがら陣に逃げ戻ったということがある。いわゆる「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事である。偉大な味方が死ねば嘆き悲しむしかないが、偉大な敵が死んだならば、これ幸いと攻めるしかない。ある意味味方とは正比例の関係、敵とは反比例の関係にあると言えるだろう。まあ最近は複雑化しているから、味方が出世したら憎らしく思い、足を引っ張りたいとか、あるいは敵が出世したら敵の敵は味方で共に結束するとかなんかいろいろあるにはあるのだろう。
 そしてそうした歴史の中で、恐らく我々は敵の不幸を喜ぶようにできてきたのだろうし、その傾向が高じた結果味方の幸せを僻み、追い落とそうとし、あるいは不幸を願うと。そういう性質を会得してきた。単純な人間だった生き物が、こうして複雑さを増し、策士策に溺れるではないが味方の不幸も視野に入れたい、できれば幸運はオレ一人にあって欲しいと思うようになったし、その傾向は強く持つようになった。しっかりしているというのは、そこまで視野に入れた行動や言動をできるということを意味する。下手に突出でもしたら人のバランスを取りたいと思う傾向によって、敢えて足を引っ張られ痛い目に遭わなければならなくなる。そうなると、それに合わせてしっかりする、痛い目に遭わないために生きる、これによって少子高齢化も加速すると。そういう傾向も決してないとは言い切れない。しっかりしているがために足を引っ張る、足を引っ張られることを恐れて委縮する、委縮するがために少子高齢化と。
 まあ突出しているものを見て「突出している!」と言って叩いてもいい権利など恐らく誰も与えていないのだろうが、しっかりしたバランス感覚があり、そしてそういうものだと社会経験で覚えたこと、そして何より叩かれた経験がそうした権利を与えるのだろう。これが社会であり、正当化する権利があるというわけである。そしてそういう時にそういう建前の裏で「ざまあみろ!」が顔を出すのである。


 ・話は変わるが、将太の寿司というマンガで清水という人が通称「マグロ哲」というのだが、
 「このままじゃああんた生活できなくなるぜ」
 と漁師からマグロを買いたたき寿司金の手先となって働いている。それというのは、実はその裏で妹を何とかして助けたいという動機あってのそれなのだが、これというのは見事なほどのシーソーゲームで、自分の妹のためなら(もっといえば自分のためならと言っても過言ではない)他人とその家族なんざ知ったこっちゃないと。猟師が潤えばこっちは困るし、こっちの事情のためなら相手はどうなろうと知ったこっちゃないと。そうやって次々とマグロを散々な値段で買ってきたこの清水という男、事情はいろいろあれどまあひどく恨まれていても全く不思議はない男なのだが。

 その真相がみんなにバレる時がある。なんでそういう事情を早く言わねえんだよとみんなでなんとかして500万集めて、妹は手術して助かる……
 まあいわゆるいい話なのだが、ここに何がないって「ざまあみろ」がない。キレイな世界であり、いい世界であり、優しい世界である反面、みんなバランス感覚が欠如しているといっても過言ではない。特に直接マグロを奪われた将太は怒ったり恨んだりと感情が多少ありそうなものだが、まあ何とかしようと躍起になっている。それが何を意味するか。甘ちゃんだからなのか、それともパッと目の前に情報が提示されるとそれに飛びつく若さなのか、それとも人がいいからなのか。それはわからないが、ただこの言葉を元にしたバランス感覚というものは決して馬鹿にできないものがあり、なかなか舐めることができないものでもある。


 ・まあこんな「ざまあみろ!」なんて言葉、できれば一生避けて通れるなら避けて通るべきものだろうし、考えるだけ心が荒むような代物ではあるのだが、それを成り立たせるだけの背景を考えると決して無下にできるものではない、それどころか非常にしっかりしたバランス感覚あって成り立つものでもあるので、そういう様々な経験あって初めて成り立つものであり言葉であり完成形がこれ「ざまあみろ」だってのは人間という生き物の悲哀というか、寂しい生き物だなとどうしても思わざるを得ない。目線が低すぎると言うか、人が一生生きて築いていくものとは一体何なのかという時に出てくるのがコレか……という感じがしてしまって。
 まあ、だからこそ人は愛すべき生き物なんだという見方もできるのかもしれないけれど。






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