・「ミシュナ」
先に述べたように、タルムードはミシュナとゲマラの2つの部分に分かれている。これは作曲され、より正確に整理され、西暦200年ごろ紙に書き留められたものであり、これに関してはラビとしても知られるラビであるユダ・ハ・ナシの多大な恩恵によるものだといえる。
タルムードの心臓部と魂がミシュナであることに疑いの余地はない。しかし、その構成要素がいつ書き留められたかについては、解説者の意見は異なる。スペインの学者たちは、この文書はイスラエルで「学習のための家」が始まって以来、R.ユダの現れるずっと前から所有されていたノートから記録されたと主張している。そして、「原始的ミシュナ」とでも呼ばれるべきものは、寺院がまだ存在していた間に、ヒレルとシャンマイの生徒たちによって書かれたと言ってもいる。
その後、ラビであるアキヴァが初めて伝統的な事項の包括的かつ系統的な収集に着手したようだが、膨大な量の資料をすべて含めるというのは量が桁違いだったために、その多くは抜け落ちることとなった。また、アキヴァの時代の多くの賢者たちは(例えばイシュマエルやアバ・サウルなど)古い伝統の収集とそのアレンジに専念していたと信じられており、彼らのコレクションや、非常に多くのバライトット(まだ組み込まれていない作品)の由来となった他の人々のコレクションは、非常に多くのバライトットの由来となった他のコレクションと同様、長い断片として保存されているのである。
上記のことに続いて、R. ユダによるミシュナの完成となるのだが、その多くに関してはR.メイアによる(アキヴァのミシュナの)改訂に基づいていた。そして、R・ユダの名前に大きな権威が与えられたことにより、後に「バライタ」または「ミドラーシュ」と呼ばれるようになる文学の一分野が生み出されたのである。
ヒレルの活動時代から、そしてそれ以前の世代から蓄積されたこの膨大な量の資料は、R. ユダによって2つのグループに分けられた。彼のミシュナは「ハラハ的ミドラーシュ」に当たるほぼ全体を除外した。この部分というのは単に司法声明/法律に関係している部分だった。その背後にある理由やそれがどのように発生したかということには関係しなかった部分であるため(除外したの)である。
一方、11 世紀のフランスの学者たちは、その中には「ラシ」(第20章)が含まれ、ミシュナが完成するまで一行も書かれることはなく、それ以前その内容は口頭でのみ入手可能なものであったと主張している。
今日では、そのどちらの見解も的外れに思えるが、当時はもっと重要な意味を持っていたのかもしれない。ミシュナの起源に関して事実上相互に排他的なこの2つの見解があることを考えてみると、それは後世の賢人たちの解説に影響を与えた可能性はあるだろう。彼らは書かれていないものは簡単に腐敗したり誤解されたりする可能性があり、さらにはタルムードへの改変を加えられる可能性が高いと当然のことながら想定していたのかもしれない。
挿入
ミシュナの先駆者にあたるものは文字で書かれていただろうか?
スペインの学者たちは、ミシュナはユダ・ハ・ナシよりずっと前、イスラエルで「学問の家」が始まって以来、所持していたメモから記録されたものだと主張した。一方、フランスの学者たち(その中にはラシもいた)は、ミシュナが完成するまで一行も書かれなかったと主張したのだった。それぞれが自分たちの主張を証明する証拠を公言しているが、現代の学者たちは初期の数世紀にタルムードの注釈者たちが研究内容をメモし、後にそれらを永続的な形式で書き留めたと主張することで、これら2つのバージョンの間で妥協している。
しかし、その当時の迫害は非常に厳しかったため、自分たちの命が危険にさらされていると感じた賢者たちは、その教えを秘密裏に書き、それを隠すことに決めたのだった。それまで口伝法を文書化することは絶対に禁じられていたためである。しかし、ひとたびパリサイ人たちにその許可が下りると、写本の数は非常に多くなってしまったので、R・ユダが権威者として認められたとき(彼はローマで権力を握っていたアントニヌスとの友情を楽しんでいたのだが)、彼は「たくさんの木々からは森が見えない」ということを発見したのである。つまり、さまざまな「ミシュナ」の多さから、人々は法を見失ったのだ。そこで彼は、成文法・不文法をすべて最も明確に選択し、体系化して、まったく新しいミシュナを編纂することを決意したのだった。
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