邪悪






 邪悪とかオカルトチックで宗教的な言葉はできるだけ使いたがらないのが主義だが、それでもこうした言葉を避けては言い尽くせないものも中にはある。ということで邪悪。


 ・人というものはそもそも邪悪な性質というものを数多く備えている生き物だといえるしそういう歴史もある。
 例えばインディアンと戦っている白人が、毎夜奇襲を仕掛けてくるインディアンの行動を把握して、奇襲のさらに裏をかいてインディアン居留地を全滅させる行動を取ったことなどは有名だろう。奇襲を仕掛けてくるのは基本的に男である。従って居留地を守るのは女・子ども・老人となる。そうしたものを全滅させた後に残るものを考えてみると、いくら精悍な男たち英雄が残ろうと、もはや大した意味などないといえる。あるいは復讐に燃えるものもいただろう、あるいは家族が皆殺しになって心が荒廃した者もいただろう。効果的な作戦や戦略というものがそういう意味で効果的であった以上は、我々の中にそうした性質が残っていたとしても不思議ではない。というより効果的で頭が切れる、クレバーとかクールなどという言葉の内にはそういう性質が本来含まれていて然るべきだろう。これはしたがって優しくないというものではない。優しさとこの残虐な性質とはそこまで矛盾し相対立するようなものでもない。敵に向かえば優秀だが、見境なく味方に対して仕掛けるようなのもいるから問題にはなるが、基本的にはこうしたサイコパスに近い性質が重宝されてきた歴史は確かにあるのだ。


 あるいは、我々は肉食を好む。我々が肉を食らう仕組みというのは非常に見事にできていると言っても過言ではない。牛や鶏や豚をああまで見事に育てていき屠殺する仕組みというのは完成されすぎていて見事という他ない。牛や豚を見事に殺して、牛に涙を流させつつもそれを見ることもなく、我々は手を汚すこともなく泣きながら殺された動物のステーキをソースをかけてただ美味しく食べるだけだということ、このシステムの完成具合は見事なほどである。
 ではこれを嫌ってベジタリアンになったらどうかといえば、動物性たんぱく質を摂取しなくなったヴィーガンの脳味噌は顕著に縮小をしたということである。肉を食らってたんぱく質を取らなければ我々は我々自身を維持することすらできない。生きている以上、健康を維持する以上我々はステーキを食らい続けなければならないというある種の「業」を背負った悲しい生き物だということもできよう。そしてそういうシステムを考え、等々構築した先人の偉大さ素晴らしさは言うまでもない。どこかの知事さんは愚かだとかバカだと言っていたが、これはとんでもなく頭が良くなければできないと思う。


 ・頭の良さ、頭が切れるということは邪悪さをどこか温存させる性質があり、頭がいいという光を求めるならば邪悪という闇もまた強くなり、闇が深まるならば光も強くなるという意味で切り離せないところがあるのではないかと思う。マジメである、優等生である、優秀である、しっかりしている……そういうと聞こえは良いが、この社会はそういうきれいごとだけでなくて実際に優秀な人材を常に求めているという隠れたテーマを常にもっているのではとも思うのだ。これだけの競争社会になり、我々は上であることを常に目指さなければならない。やれ誰それより上、誰それより下……我々はそこに一喜一憂する。しっかりして抜け目がない、勉強をして人の上に立つ。こういうことを通して誰かより上だと安心し、誰かより下だとガッカリする。これが進むと、誰かより上だと優越感を得て、誰かより下だとどうしても誰かを蹴落とさなくては済まなくなっていく。足を引っ張り、他人の不幸を喜び、誰かの不幸を喜ぶ……そういう性質と我々は常に無関係ではないように仕向けられている。そして優秀さに付随してあるのは邪悪さである……人の不幸を見て悲しいと言いつつも、その時口の端に浮かぶ笑みというものが、ある意味ではその人生を全て物語っているようにすら見える……それがその人のすべてではないにしても、人の不幸を見て安心し、あるいは喜び、ああこうならなくてよかったと幸せになる人もいる、あるいはそういうのをひっくるめて、不幸から幸せを感じ取る人はいる。

 もっとはっきり言えば、人の不幸を望む性質というのは人の中に確かにあるのだ。より不幸であって欲しい、よりひどい目に遭って欲しい、そういう期待を満たしてほしい、世の中にある不幸が人には降りかかっても自分には降りかからないで欲しい、そして時々当たって撃沈していく人を見れば、ああ自分には当たらなかったラッキーと胸を撫でおろす……皮肉な話だが、不幸の総数が増えれば増えるほど、それに当たる確率も当然増すはずだが、しかし同時に人は幸せになれるのだ。


 ・そういうわけで、なんかマジメに生きて世のため人のために貢献していく、こういう表と裏を兼ね備えた世の中に対して何かやっていく、世に貢献するということがあまりにもバカバカしくないかい?と思いつつある今日この頃。かつて被災地に行っていろいろやっていた時、涙を流して喜ぶ人もいることを知ったその一方で、泥臭くバカみたいなことをちまちまやってるわと嘲る人間もいたなあなどと。そういう人間をお腹いっぱいにするようなマネはしないようにしよう、誰かの栄養源になってたまるかい、などというのは思うところ。いやそれ以上に、そういう行いが不幸から幸せを拾い上げる人間のその性質への水やりみたいなところはあるわけなので。






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