願い






 我々が外界と接する時というのは何らかの期待をしているし期待値を持っているわけだが、果たしてその期待値はどういう値なのかということは我々自身のけっこうな問題だと言える。
 例えていえばすごい人であり自分以上の人、人のいいところを探そうと思うのであればそういう値が手に入るだろうし、自分以下の人間を探そうと思うのであれば当然そういう結果が手に入ることだろう。どこに行き、誰と出会い、そしてその結果何を得るかというのは人それぞれで異なる結果となるだろうが、ただその期待値はそう簡単には変えられない。本来変数であるべきそこが、定数になっているということが起きる。そしてそのことの結果として、素晴らしい人ばかりで有意義だ、刺激になったというか、それともクズばかりでこの世はクソばかりだというか、それはどちらにしろ自分自身の問題だということをふと思った。


 ・世界に対して……というとちょっと大げさなので外界に対してとするが、その外界に対してレベルの低さを求めるということ。これというのはかなり見受けられる現象だなと。できるだけアホでいて欲しい、バカでいて欲しいと思う。そこでもうちょいなんとかしようよと叱咤することも本来はできるし、その方が親切ということはある。しかしそれをしないし選ばない。なぜかってレベルが低いままでいて欲しいから。直接言って嫌われてでも注意するとかすると角が立つし関係もこじれるが、しかし言って悪いところを指摘してやるというのは本来は親切なんだけど、それを選ばない。
 なぜ選ばないかって、レベルが上がって欲しくないから。外界に対してレベルが上がって欲しくないという願いがそこにあるから。そして外界は常に自分以下であって欲しいと思う、つまりは愚かであり、安心を与えてくれ、大したものじゃないと常に思わせてほしいためなんだけど、それを続けていると何を見ても「クズ」自分と違う、自分の考えと違うということが、その違いが「愚か」を意味し始めるようになる。つまり物差しが狂うことになる。そういう現象をよく見るというか、前々からあったそれを表現するとすればそれだろうと思う。時間が経てば忘れる、人はバカだから、時間がすべてを解決するからという、人も物も起きた出来事もそのすべてを舐めてかかる、しかしそれとは逆に記憶が同じ回路をぐるぐるとなぞって記憶が強化されるということは思わない。なぜ思わないのかって、根底に他人は愚かだという態度があるからであり、舐めてかかっているためであり、それ以上に他者は常にバカであって欲しいという願いがあるから。


 ・この世界は広いし、例えばYoutubeは無限大といってもいいほど動画があるし、人は億を数えるほど多い。
 しかしもしもそのどれをも見渡して、ああ世界はクズばかりなんだ、バカばかりなんだ、愚かなやつらだ、バカめ、ということしか見つけられないとすれば、それは観察者の方に問題があるということ。
 そして人を見ては安心を得るだけ……安心を得るためだけに人を利用するようになるとすれば、いつかはそのしっぺ返しがあるだろうということ。
 そういう意味でみんな一様に目線が低くなってないかというのを普遍的な現象としてやや危惧するところ。まあ先日の安芸高田市の市長なんかをみると明らかにレベルが高すぎる人間なので、ああいう刺激を積極的に人生取り入れるようにしていきたいなと思った。






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