郷愁と新印象






 それをはっきりと説明することは大変に難しいのだけれど。
 かつてあった「それ」の栄光みたいなものがあり、かつて栄えていた「それ」の面影というかそういう印象を読み取ることがけっこうある。そういうものというのは目の前にあるその対象の持つ、そしてその現に放っている印象よりもはるかに強かったりするのだが。それをなんというかは知らないが、言葉にすれば郷愁とか過去の栄光、かつてあった何かを偲ぶということ、回顧……まあそういう言葉で表されるところの何かであり、そういう印象というのは感じ始めてみるとものすごく強いもので、印象は鮮やかだったりする。その過去に対する印象というのは恐らくとてつもなく強いものであり、まあ郷愁が一番強いと思うので郷愁と呼ぶとするが。一度そういうものを感じ始めると、郷愁からの郷愁……という意味で連鎖することがある。そしてその連鎖に引きずられる。
 これも郷愁あれも郷愁、ああ懐かしいねえ。1から2へ、2から3へと移行しても郷愁はついてくる、そしてその時というのは単純に郷愁という感情を単純に愛でているだけ。その時何が起きているかといったらいわばその郷愁の虜となっており、歩いても何をしてもついてくるその郷愁に取りつかれているなとふと思った。


 ・これは地味に恐ろしいことで、今を生きている以上は今の印象というものが当然ある。生きているわけだし、今を生きているのだから当然あって然るべきものなんだが、ところがそれがない。そこにあるべきものを求めることなく、そこにあるものを求められず、代わりに過去の郷愁を感じている。郷愁はけっこうだが、それによって「今」あるものを失う。「今」手に入れられるはずの感覚ではなく、代わりに過去の郷愁を得ているわけだから。そして自分自身の頭の中の郷愁にまつわる感覚は、そのアンテナは敏感に郷愁を感じている。
 しかし繰り返すが我々は過去を偲ぶためだけに生きているわけではない。従って郷愁もそりゃたまにはけっこうだが、今目の前にいて懸命に生きているもの、その対象や事物、人、起きている出来事、そういうものをきちんと見るようにしなければ……それは敢えて目を向けるということを意味するが、そうしなければ新しい印象はどうしても見つけることができない。この世界は10代や20代に感じた世界だけがすべてではないし、今を生きているわけで、そういうわけで敢えてその郷愁をこの世界から切り離さない限りは新しい印象を掴み取ることはできない。


 ・とまあそういうわけで、郷愁というのは一種の耳なし芳一みたいなものであり、誰もいなくなった墓場で往時を偲び、霊魂の集まりの中で琵琶を弾き語るようなところがあり、それはけっこうだがそれにいつまでも入り浸っていると「今」という時を見失う。今を見失い、その結果今手に入るべき印象を永久に失う。
 それは地味に、そして実に恐ろしい事だというようなことをふと思ったという。生きるってのは別に過去をなぞることではないもんなあ。墓場を撫でまわして過去の味を味わうことが生きることみたいなことになったとすれば、それは本末転倒だよという。





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