たびたび書いているネタな気もする。
先日鳥山明氏が死去されたのに伴ってドラクエ3についてどこかで言っていたのが、遊び人は完全に遊びにしようよという案だったそうで、救済措置など当時は全くなかったのだと。そして遊びの内容もレベルに伴って段々すごさ(というかひどさ)を増していく完全に使えないものにしようという案だったそうだが、あまりにも救いようがなかったそうなので、ならばと救済措置ということで賢者になれる仕様が追加されたのだそうだ。
ということは当初やっていた人の中には当然遊び人を選ばなかった人も多くいただろうし、たまたま選んでいたら賢者に転職できることがわかってラッキーな思いをした人も中にはいたのだろうが、まあそれはたまたまであって。そういう情報がとっくにわかっている現代人からしたら遊び人という選択肢は合理的に見えるというわけだが、それは答えをわかっているから選ぶだけの話である。
・言うまでもないことかもしれないが、現代人の常識には一つの職業をずっと続けることが当然良いことだというとてつもなく強い固定観念が染みついている。しかし今各地で起きている問題を見ていくと、旧態依然として問題解決を選ぶことなくただ事なかれ主義で惰性で続けているもの、自分たちの給料を上げる法案はしれっと通そうとするものなどが数多くあり、問題解決に資するどころか解決するためのその場を牛耳り、問題を先送りして逃げるのが当たり前という構図というのが各所で見られるようになっている。どう考えても実態としては悪いのだが、しかしそれが「良い」という固定観念は根強く、この二つの交わらなさ加減と矛盾しつつ共存している具合と言ったら見ていて不気味なほどである。
・これというのはドラクエ3のやまたのおろち戦に似ているとふと思った。
あのゲームで最初に詰む場面と言えばあの戦いくらいしか思い当たらない。ダーマの神殿でやれ転職だと言って喜んでいるのがレベル20あたりだが、その次のジパングのやまたのおろちはマヒャドがかなり重要になっていて、これを覚えるのがなんとレベル32前後である。なんとこの短期間に12もレベルを上げないといけないことになる。なしでもいけないことはないが、その代わり相当のレベル上げは必須となっている。
・さて、我々も社会的に多大なる難問をたくさん抱えているのだがこれを解決しようにもなかなか難しい。
これというのは何によって難しいのかというに、例えば「マヒャドがいい」と聞けばみんな魔法使いでいって回復なしでマヒャドはあっても回復ができないから勝てない。
じゃあ回復は重要だねとなればみんな僧侶となり、今度はマヒャド抜きで回復さえあればと思うに火力不足で勝てなくなる。
じゃあ両方必要だとなればみんな勇者となり(現代人は勇者がまことに多い気がする)、攻撃はほどほど回復もほどほどの無難で微妙なところをやれはする、しかもそれを自らは万能タイプと思ってはいるものの実際は単なる凡庸タイプであり、結局のところ「帯に短したすきに長し」と言ったところでイマイチ活躍できないまま終わる。
みんなその違った個性を発揮しあえばいいし協力し合うのが大切ということを薄々はわかっているものの、「オレみたいな勇者が魔法使いみたいな下賤なやつに助力を求めることができるか」「オレは魔法使いだぞ、マヒャド使えるんだぞ、僧侶なんて単なる足手まといだろうが」といった具合に派閥を作り、それだけならともかくオレたちはすごい(があいつらはダメだ)と持っていき、解決を選ばない。いや、解決を選ばないのではなく、やまたのおろちを倒してしまえば「狡兎死して走狗烹らる」、即ち用済みとなって捨てられるのが自分であるということがわかっているだけに解決しないことを選ぶことになる。
こうしてやまたのおろち戦を延々やっているのが現代人なんだなと。
・結論はもう出ていて、単純に言えば賢者は優秀だねってことだし、そのための遊び人も非常に大切だってことになる。
しかしそれ以上に重要なのは魔法使いだろうと僧侶だろうと協力し合えばいいってことだし、そもそも解決する気があればそんなことはとっくになされているはずである。それがなされていないし、なされる気配が全くない。
じゃあ何が最も足りないかって、遊び人という遊び、つまりはムダに見えるものをいかに許容するかということ、つまりはそれを受け入れる側の気持ちとしての余裕であり許容する力が必要になるのではないかと思うのだ。
しかしまあそれをしようにも、魔法使い歴40年レベル40であれば「魔法使いは当然いいよ、他の職はダメだよ」というだろうし、僧侶村だって同じことを言うだろう。これは一体なぜ起こるのかと思うに、同じことを延々と続けた人にとって「いいもの」や「わかるもの」は非常に狭い範囲に限られてしまうことになる。経験はある、ただその経験の幅広さがないというエリートでありムダのなさこそが自分の物差しにない測れないものを許容することができない結果へと表れてしまう。あるいは賢者みたいなものを見た時に「え、こいつ自分と同じ魔法使いにプラスして僧侶もいけるのか……」となった時に自分の上位互換を感じ取ることになる。そうなると今度は自分の身が危うくなるので当然受け入れられないといったことが起こることになる。
そういうわけで、今日もみんなで仲良くやまたのおろち戦をやっているのが現代人なんだろうななどとふと思った今日この頃。
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