話とニュアンス






 最近ネタが溜まってきたのでちょっとここらで幾つか書こうかなと。


 ・我々の文化で「話す」とか「話をする」などと言われるものがあるわけだが、英語では話すったってtalkもあればspeechもあり、speakにsayにtellもあるといろいろあることはわかる。これに合わせて「言う」「伝える」「対話する」みたいな使い分けもできるっちゃできるわけだが、まあ基本日本語なんてのは「話す」一語でほぼ事足りる。まあその「話をする」を分析しようとすれば英語の使い分けが非常に便利ではあるだろうし、確かに英語的な区分けによるニュアンスの違いを読み解くことはできないことはないにせよ「話をする」で済むといえば済むわけであり、そういう外的な分類はそこまで必要かと言われれば別に必要というわけでもなさそうではある。
 しかしじゃあ我々の「話をする」といったことがそこまで英語ほど外的に鋭敏にわかれさせられる必要性が全くなかったかと言われればそうではなく、むしろ内的には、つまり文化的には話す一辺倒で済むためにそこまで分化する必要がなかったかと言われれば意外とそうでもないのではないかとふと思った。

 我々が「話をする」という時に乗るもの、あるいは乗せられるものとは何かって恐らくは感情であり、感情のニュアンスが少なからず乗ってくる。例えば怒っているがゆえに話す、あるいはこれメチャクチャ面白いんだということを伝えたいという時に話す、悲しいんだという時に話すといった具合にそういう感情とその要素を伝えるために話すということは発達してきたのではないかという文化的なものが垣間見られることが多々ある。
 そして話の内容以上に、そうした感情の要素を我々が読み解こうというような受容体みたいなものもあり、なんというか今そういう場に差し掛かったなというような一種の感情的な段差みたいなものを感じることがある。それに差し掛かったなとわかるがために我々のそういう受容体みたいなものが反応しているなと。そういう現象というのは日常生活をしているとそこまで意識されることはない気がするが、意外とこれがもたらす様々な現象というのは原初的な意味合いで意外とバカにならない影響を持っているのではないかなどということをふと思った。


 ・例えば顕著なのが学校の勉強。
 なぜ勉強するかってその授業の内容に一応意味があるとみなしているからであり、それを認めているからだが、しかしそれによって感情が揺さぶられることというのは少ないし、マジメになればなるほど少なくなっていく。意味はあるかもしれんし役に立つかもしれんが、しかしつまらん話というのはあるわけで、そういうつまらなさに我慢して机にしがみつくという我慢と忍耐、艱難辛苦が即ち勉強であると言った節は大いにある気がするが、なぜそれが勉強なのかって全然面白くないから。面白くないということは我々の感情を揺さぶる要素がないためであり、そういう要素の薄い、つまり我々の文化的な感情を上下させたい、感情的な意味合いでの溜飲が下がる思いをしたいという欲求をほとんど満たすことがないからではないか。
 つまり怒りにせよ悲しみにせよ、楽しみにせよそうしたニュアンスを含ませるのが当然なのが「話」であるという我々の文化があるのに対してそれに訴えかける要素の希薄な授業をすることも、それに耐えることもかなり不自然な行為だということになる。逆に言えばそれを聞いて怒りの感情が浮かんだとしても、我々の文化的には感情が揺さぶられているわけだから決して間違いではないと。そうではなくて感情を揺さぶる要素の全くない、怒ってもいなければ悲しんでもいない、楽しくもおもしろくもない話を聞けない、聞くのが苦痛であるという事情が我々の内にはあって、それは我々の文化であり言語が感情を読み取る文化であるからというのが事情としてあるのではないかということ。つまり授業中に寝るっていうことはその意味で間違っていないということでもある。


 ・例えばニュースや新聞といったものは感情よりは内容であるのだが、そうしたものと同様に内容さえあればいいという風に完全に割り切って人と接することは我々にはかなり難しいということでもある。恐らくそうした関係性や状態というのはかなり特殊で、感情的には「無」なのに一緒にいるということは不自然というよりはもはや高等技術が要求される場なんじゃないかと。そして何らかの感情を揺さぶる要素のない話を我々は「おいおいマジメか」と茶化す、これはおいおい新聞かニュースかといったのとかなり近いのだが、「その関係性でありながら」感情を揺さぶる要素の希薄な内容のお固いもの、意味や役には立つが感情を揺さぶる要素の希薄なものを受け入れるということが我々にはけっこう難しいのだろう。
 そういう場合にテレビとかゲームといったものが役に立つこともあるのだろうし、そういったものはある意味神器みたいなものでそういうもののある時間や空間を共有することの意義はバカにならない。そうしたものすらもなく、ある種の関係性でありつつ、時間を共に過ごすというのはもはや苦痛に近いものがある、という文化がある。その苦痛は何かって、恐らく感情的な受容体が揺り動かされることがないことによる。


 ・そういうわけで、我々はどこかでそういう感情的な意味での満足とまったく無縁には過ごせないし、過ごすことが難しい。そういう感情的なものを手っ取り早く満たすのに例えばパチンコなんてのは意外と合理的でいいものだったりするのかもなあ(スリルがあってドキドキするという意味で)なとと思ったという話。






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