二バスに関して、なぜ二バスがこの話に登場してくるのか、この話で果たしている役割は何かなどということを延々と考えてきたわけだが、今一つ煮詰まらないでいた。これだけのゲームを作る製作者のことだから、何かしらの考えがあっての二バスの登場ということになるんだろうけど(という方針で考えるのも不純ではあるが(笑))それがわからない。そういうわけで時々思い出しては一章のタインマウス~クリザロー~クァドリガ砦を行ったり来たりしていたがそれでもわからない。
多分一章のここだけ延々20年くらいやってる気がする(笑)
・まあ単純に考えればやり込み要素としての死者の宮殿へ、その導入へということになるわけだが、単純にそれだけとなるとちょっとあまりにもパンチが弱すぎないか?というのはあった。
そうして今日思いついたのは、もしかして二バス自体に大した意味は持たせてないのではないか?ということだった。むしろ二バスがメインというわけではなく、二バスが登場人物たちに対して一体何をしたのかということを考えてみては、つまりメインとしてみることをやめるということで何か浮かび上がってくるのでは?と思ったのだ。
具体的に言えば、レオナールという人物をアンデッドとして蘇らせるために敢えて使われた節があるのではないか?ということである。
二バスが屍術師という立ち位置で死んだ人間を再利用しよう、再び戦わせようということを意図して研究しているのは周知のとおりだが、これというのは支配者側からすればものすごく都合がいい。何しろ兵士が死んだら再度蘇って戦ってくれるわけで非常にコスパに優れている。しかも生きている時には余計なことを考えたりしてそこまで強くない人間でも、死んだら雑念が消えて生者への憎しみだけで戦ってくれるので個々人の能力アップも図れる。つまり、人間をリサイクルして何度でも活用できるうえに生前より強くなっているわけで、何重にもプラスは大きいのである。まあその二バスのいるガルガスタンがいずれにせよ早期に滅ぶというのは皮肉ではあるのだが。
そうした設定の上で、レオナールが二バスによってリサイクルされることになる。
・弱小民族ウォルスタで、ウォルスタが滅ぼされぬように粉骨砕身、自分が悪人になってでもウォルスタは存続させてみせるという強い意志をもった(あるいは作中では全く触れられることはないが、その裏は母親を殺害したガルガスタンへの深い憎しみがあったのかもしれないが、そうした感情を察せられる描写は作中には出てこないように思われる)人物であり、ウォルスタ存続の理想と常に滅亡の危機に晒されている現実ということに悩み続けた人物だが、そうした彼の思いはバルマムッサの虐殺によって体現されていると言える。どんな卑劣な手を使っても生き残ると。いくら正義を唱えたところで、無力なために滅ぼされてしまえば意味がないのだ。
あるいは、無能な指導者であるロンウェーを排除しなければウォルスタ全体が危ういと感じた時のレオナールはロンウェー公爵暗殺に躊躇することがない。
さらにはその罪をデニムになすり付けることに失敗し逆に殺される時にも、自分が死のうとデニムが死のうとこれでウォルスタが一つにまとまることには変わりないと言っている。
そういうわけで作中でもとりわけ存在感のある人物である。その存在感を支えているのはとてつもない信念の強さ、そして目的のためには行動を一切躊躇しない徹底的な無私の姿勢、そうしたものであると言えるだろう。
・そうした人間が死後二バスによってアンデッドとしてリサイクルされるわけだが、これというのは二重の意味性を持っているといえる。
一つは生前に徹底された「無私」、すなわち己の感情を捨て目的遂行のためにのみ生きるような人間だったレオナールが、死後にはアンデッドとして蘇り、やはり「無私」として私情を挟まずデニムたちと戦うことになるのだが。この時「無私」の意味が全く変わっている、あるいは前者的な意味合いにおける無私に対しての痛烈な皮肉としての「無私」の概念がここで提示されようとしているのは注目に値するだろう。
どちらも傀儡(かいらい)に見えるが、前者は強い意志を持ったうえでの操り人形でありロンウェーの飼い犬を敢えてやっている(したがって時には裏切ることもある)という節がある一方、後者はただの二バスの操り人形でしかない。そういうわけで生前ひたすら「無私」であったレオナールが「お前は無私なんだろう」とアンデッドとして意志を持たず、己の考えをもたず戦うだけの戦闘マシン化するという意味での「無私」の意味の変化がまずある。カチュアが「レオナールもロンウェーと一緒(で己の欲望のために人を犠牲にするタイプの人間)なのよ!」といった時にレオナールが珍しく声を荒げる場面があったが、これはレオナールにとっては最大級の侮辱であったに違いない。
そういうレオナールが皮肉にもアンデッドとして戦うことになるというのは、この意味での侮辱としての文脈が続いていると考えていいだろう。いろいろな葛藤があって一切の感情をすべてを押し殺した上での「無私」ではない、本当に何一つ自らの感情を持たないだけ、ただ優れた腕前だけでひたすら戦うだけの「無私」なのだ。
もう一つはバルマムッサの虐殺を主導したことによる報いとしての意味性である。なんだかんだ言っていくらレオナールが高潔であろうとも、ウォルスタのためには他に手段もないし仕方ないと思ったとしても、じゃあ5000人殺したことは許されるのかと言われればそんなことはない。
これは例えばジュヌーンなんかもガルガスタンの民族浄化政策に関わっているわけだが、命令をした人はした人だが、それを受けて実行した人は実行した人で、何らかの罰を受けなければならない、例えば罪悪感を抱えたまま生きていかねばならないということはこの物語に一貫して流れているもののひとつであると言える。虐殺や粛清を主導してうまみを吸い、なおかつそのまま何事もなく生きていくということは、少なくともこの物語においては許されないのである。ジュヌーンはその後も常に罪悪感を抱えて生きていくことになる。
そういう文脈で見るならば、レオナールが殺されただけでそのまま退場で終わっていいわけがないという流れはあることになる。つまりそれではあまりにも犯した罪に対して軽すぎる、あるいは十分だとみなされていないと思った時に、その腕前だけを買われて二バスによって蘇らせられ、思想や流れなど一切無視、無理やり優秀な戦力として戦わせられるということはレオナールにとって最大級の地獄なのではないかということだ。
しかしそれは同時に虐殺に関わった者に対する報いであり、同時に一種の贖罪の過程でもあると考えられる。あれだけのことをやらかしてそれでは溜飲が下がらないだろうと。そういった名もなき者たちの憤りであり怒りが、こうした描写を通して「ざまあみろ」と収まっていくのだと考えられる。
そういうわけで今回はレオナールを取り上げたが、近々後何人か取り上げる予定。
この記事へのコメント
それで、自分はあえて解放軍の為に手を汚しただのといわれてもねえ。自分をその場の犠牲に勘定しない以上、それは自分の都合でしかないと思う。
デニムはカチュア姉さんよろしく、レオナールをもっとボロクソ言ってもよかったんじゃないかな。まあ、それこそデスナイト仲間のザエボスなら、Lルートのデニムに言ったようなセリフをレオナールにも投げかけそうですが
きんた
私はけっこう最初レオナール好きで、これを書き始める一番大本はレオナールに行き着く気がしますね。
なぜレオナールはいろいろ許されるのか、家庭や思想や覚悟の問題なのかと思いきや、実は全く許されていなかったことを最近気づいたというですね(^^;)
>それで、自分はあえて解放軍の為に手を汚しただのといわれてもねえ。自分をその場の犠牲に勘定しない以上、それは自分の都合でしかないと思う。
これですね。この指摘は素晴らしいと思います。
ああいう言動で動かれるとかその思想をもって狙われるとかいうことがいかに恐ろしいか。
他人の痛みがわからない、向けられる側の恐怖がわからない、そもそも考えようともしてないという点がレオナールの厄介でまた恐ろしいところではないでしょうか。