不幸の連鎖と幸福の連鎖






 いろいろ調べものしてたら、検索結果を調べられる素晴らしいサービスの話があって、そういやこのブログもそういう機能があるんだよなあとふと思い出していろいろ調べてみたら、なんと「無敵の人 もっとやれ」という検索語句でこのブログ相当数引っかかっていることが判明したという。「もっとやれ」はさすがに論外だろうとは思うものの(笑)、それを検索していくといろいろ悩んでいる人もいるようで、「この時代に無敵の人って助けた方がいいのでしょうか、それとも見捨てた方がいいのでしょうか」と悩んでいる人がいた。
 オレもこれについては答える資格があるだろうし、まあ考えてみるのも悪くないと思っていろいろ考えてみた。


 ①助けた方がいいということは絶対にない
 そういう境遇に陥っているから助けないといけないということは確かにあるものの、助けてはならないということも正しいと個人的には考える。なぜって人を助けるってことはその人間の最も惨めったらしいところを見た人間の一人となる事を意味する。即ち、助けるということが、その思い上がりは当然のことその行為そのものが恨まれる可能性が大いにあるということ。そしてそれがすんなりとうまくいく場合というのは「恩は恩で返す」というある種の不文律があって初めて成り立つものだとは思うものの、個人的に言えばそういうルールをこの関係性に期待する方が間違っている。
 京アニ事件もそうだけど、青葉被告は京アニを好きだったことは最初からわかっているし、それこそそれによって「人生を救われた」とすら思っていても不思議ではない(個人的にはクラナドなんじゃないかと思っているけれど、まあそれは余談)。しかし、「なのに」ではなく「だからこそ」ああいう顛末を迎えることとなったのだ。京アニに深く感謝している、「だからこそ」焼かれる結果を招いたと。従って、いわゆる普通のルールをここに導入してはいけないし、期待してはいけない。はっきり言えば「見捨てる」ということがこれはこれで非常に重要なのではないかということだ。
 焼かれる結果を招いたのが冷淡に見捨てた大多数の方ではなく、感謝された京アニの方だったということがこのことの特殊な実態をよく表していると言えるだろう。


 ②見捨てるという選択肢
 では見捨てるということになるわけだが、しかし面と向かって「見捨てる」なんてことをやった日にはそれこそ暴発の引き金を(よりによって自分に向かって)引くことになりかねず、それはそれで正しくない。
 じゃあどうするかって、多くの組織、公的機関を調べて相談しまくって対象を大きく広げろということだ。プラスに言えばみんなで対処する、悪く言えば自分に対して暴発しないようにもっていくということでもある。対象があまりに狭いと自分に対してのみ暴発する可能性があるので、もっと大規模にたくさんの人間関係を巻き込むことが重要になる。
 被害を広げたいのかと言われればそういうわけではないが、しかし自分のみが焼かれるような愚だけは絶対に避けろということでもある。自分が死んで何になる、それも自分だけが死んでプラスになるようなことがあるかといえばそんなことはないし、そういうことがあるとつい錯覚したくなる気持ちはわかるけど、そういうバカな期待はやめろということでもある。それよりは多数の公的機関、市役所だとかそういうところを当たりまくって、自分にだけ対象が向くかもしれない可能性をより減らせと。暴発は駅かデパートか市役所かわかったものではないが、少なくともこれによって自分だけが死ぬかもしれないという可能性は大きく減らすことができるだろう。とにかく生き残れ、死ぬなということである。
 相手を助けるというような正義感を満たしたいなら別だけど。たくさん選択肢がある中で、自分だけが死んだ、ああ被害が極限できたわよかったよかったと満足できるならそれはそれでいいのだが、それはつまり「不幸中の幸い」ではあるわけだが、たくさん選択肢がある中でたまたまそのうちの誰かが死ぬという「幸い中の不幸」に持って行った方がより良い形ではあるよなあと思うのだ。


 ・そういうわけで、「無敵の人を助けるべきか?見捨てるべきか?」
 についてはどちらも誤りで、助けないし見捨てもしない、即ち公的機関を巻き込んでできるだけ話を大きくしろというのがここでの結論となる。
 ひっでえ結論だと思われるだろうが、まあしかしこれには根拠がそれなりにある。


 不幸の連鎖ってのは確かにあるのだ。人が不幸になる、みんな同じなんだと我慢を強い、我慢した結果いつかどこかで暴発し、誰かが犠牲になる。人の幸福はうらやましく見え蹴落としたくもなるが、人の不幸は蜜の味で、あああいつが不幸になったわと胸を撫でおろしなんならほくそ笑むのが人というもの。なんだけど、誰かが暴発した分は誰かの不満へと繋がり、なぜオレだけが死なねばならんのだとなり、そして新たな火種へと繋がる。人が一人死ぬということはそうした火種を、闇を抱え込むということに等しい。そうした火種を抱え込んで暴発もせず粛々と暮らして生きていくということは並々ならぬ努力と忍耐が必要となる上に、しかも別にそれが根本的解決を意味するわけでもない。まあ不毛な話である。
 しかし同時に思うのだ。
 不幸の連鎖があるのであれば同様に幸福の連鎖はあるはずであると。人が幸せになる、お節介だが人にも幸福になってもらいたいと思う気持ちが新しく人を幸福にするということはあるはずで、それは不幸の連鎖をそのまんま裏返しただけのものでしかない。ただ、この30年間オレたちの世代前後あたりは特にそうしたものを積極的に作ろうとはしてこなかった。積極的にそれを作らないということが結果的に不幸の連鎖を作ってきたと思うし、もはやこれは死ぬまで変わらないだろう。
 つまりは何かって、一人一人が「幸福論」みたいなものを一応持っているが、そこに収まっているのは不幸の連鎖の話ばかりであり、人の不幸を見てはオレはそうはなっていないと胸を撫でおろし、なんなら人の不幸を見て自分以下だと幸福感を得るという価値観しか持てなかったし、何よりもそれ以上のものを作る努力を全くしてこなかったということでもある。上を見たらキリがないが、下を見たら幸福感を得られる。そうした幸福の得方以上のものをどこまで構築しようとしてきたのだろう。そういう意味での我々自身の幸福の形であり、ありようというものに関してあまりにも無頓着ではなかったろうかと思う。そういうものにもっと意識的になり、認識していこうとすることが結果的には無敵の人を減らす方向性と一致するのではないかと思うし、そういう方向性を持てない以上はいずれまた無敵の人事件は起こるんだろうなと思うところである。


 なんで結論を再度まとめると、助けるな、見捨てろ、公的機関を巻き込め、死ぬな。
 人の不幸を見ては安心し、自らの幸福感を得るタイプの人間になるな。そういう感じですかね。





この記事へのコメント

にほんブログ村 ゲームブログ ゲーム評論・レビューへ
にほんブログ村