風来のシレンの分析




 風来のシレンの動画(テキトーに貼った)


 このゲームというのはごくたまに考えているがいろいろ分析すると参考になるしおもしろいので。

 ①例えばこのゲームを全く知らない人が急にやってきて
 「オレはどうしてもこのゲームクリアしたいんだ!教えてくれ!」
 と言ったとする。そういうシチュエーションがあったとして、まず重要なのはこの人はこのゲームをそもそもやったことがあるのかということ。で、全然知らないと言ったとする。この場合何が致命的に足りないかって、経験が足りない。教えてくれも何も、まずこのゲームがどういう仕組みでどういう特徴でというのを全く知らなければ教えるもクソもないのだ。こういうことっていうのはゲームで言うとおかしいけど、実生活ではけっこうあること。全く知らないけど教えてくれと。
 そういうわけで、最低限の基礎っていうのは50~100周まずはテキトーにやってみることということになる。これで痛い目にも遭えばうまい目にも遭いつつ、ああこういうゲームなのかな?というものをまずは形作ると。これが基礎になる。
 では基礎とは何かって、一言で言えば「混沌」、ヘタクソなことをしたりミスをしたり、あーしまった今度は気を付けようと思っていつつもまた同じことを繰り返してオレはバカか……と内省しつつもまあやっていく。つまり単純なプレイヤーとしての経験を増やすことと、反省の山と失敗の山と後悔の山があって、この山を作ることが基礎になるということができるだろう。これらがない状態で「教える」ったってほとんど意味がない。意味を為さないのだ。つまり教えようにも受容体としての基礎がなければ教わることすら難しい。
 これは言い方を変えれば、人は理想的で体系だった知識のみでなんとかなるわけではないということでもある。


 ・しかし最初いきなりあまりにもトントン拍子で行き過ぎてクリアしてしまう場合も中にはあるだろう。つまりあまりにもうまく行き過ぎた場合だが、果たしてそこまでうまくいった人が「このゲーム楽勝なんだな」と思って2周しても3周してもクリアできてしまう場合も中にはあるだろう。これというのは一度はまってしまうともう舐めてしまうので、それ以上基礎を増やすことが難しい状態になるといえる。「なんだ大したことねえな」「楽勝なんだな」と一度思ってしまうとそこから増やすことは難しい。一応のラスボスももう二度と戦うことはないわけで何度はぐっと下がる。
 あっさりと倒せてしまった人に苦戦と苦労の果てに倒せた人の気持ちが分かるか?と言えばこれは難しい。恐らくはわからないだろう。喜びや充実感がついてこない、感動がない。つまり、しっかりとした基礎があって初めてついてくるものは何かって、その一つは感情だと言えるということでもある。感情が乗るということはそれはそれで大切なことでもあるのだ。


 ②ダンジョンとしては4つある。
 基礎がしっかりできていないと新たな環境下での対応が極めて難しいことになる。これは何かって基礎あっての応用ってことになるんだが、それなりのやり込みをして経験を身体に染みこませていないととっさの対応ができない。新しい状況、新しい環境での新しい視点の獲得、つまり気付きとそれを今までのやり方へと組み込むということ。これがなかなかに難しい。
 そういうものをひっくるめての対応能力ということになるんだが、なぜ対応ができるかってやはり基礎あってのものであると。基礎がしっかりできていいないととっさの対応ができない、慌てて適切でない対応をして死んでしまうことが良く起こることになる。


 ③そして知識。
 ここにきて知識とはなんぞやということだが、プレイヤーとしてやっている時には気づかなくても、検索したりして新たに知識を入れていくと今までわからなかったいろいろな気付きや、今まで一応知ってはいたけど知らなかったその意味が初めてわかるというのはある。
 例えば、
 ・吸出しの巻物と壺拡張の巻物を分裂の壺に入れれば延々と増やせること
 ・底抜けの壺は普通にやってたらゴミでしかないが、実は吸出しで落とし穴の罠を吸い出せるので階段を探す必要性がなくなること
 ・分裂の壺にそもそもメイン武器防具を入れて一気に合成して強くなること(ついメイン以外を入れようとするが実はメインを入れるのが強くなるのに一番手っ取り早い)
 ・遠投の腕輪でやり過ごしの壺(これも普段は使わないゴミみたいなアイテムだが)を敵に投げると大量の敵がなぜか壺に入る

 まあこんな感じで。
 そういう知識、というかまあ一種のコツであり、ああそういうのがあるのか!今まで全く気づかなかった!というものを取り込むことによって飛躍的に結果が向上する。なぜ向上するかって、今まで見ていた時とものが違って見えるからであって。ゴミだと思っていたものが超重要なものになることもあるし、超重要なものがゴミになることもある。そういうことが起こるから。
 こちらの後者の例で言えば、強化の壺なんてのは最初は非常にいいのだが、下りれば下りるほどゴミ化していくし、逆に分裂の壺は最初から重要だが強化の壺で強化された武器防具が手に入ればさらに重要度が増すことになったりする。


 ・さて。
 なぜここで敢えてゲームの話を書いたかっていうことなんだけど。


 知識というものが非常にいいものだとか素晴らしいものだという一種の偏重という現象はある気がするし、何をするにもまずは知識というのはこのゲームの攻略からしても確かに後々けっこう重要だったりする。しかしやり過ごしの壺とか強化の壺とかの話というかコツってじゃあ重要だから最初から持っておいた方がいいかといえば全然そんなことはない。むしろ持たなくても全く問題がない。知識とかコツというのを一覧にして最初から持っておけば後でめちゃくちゃ役に立つかもしれないけど、でもそれは別に後でいいわけで。それよりは優先されるべきは基礎であり、つまり50周100周と延々痛い目に遭った方がいいということは既に書いた。
 つまり知識は知識として重要なんだけど、しかしそれは基礎ではないということ。つい知識≒基礎だと勘違いしがちなんだけど、人の基礎を作るものは何かっていろいろやって痛い目にも遭いながらそれでも延々とコツコツとやり続けることであって、そうして得られる、あるいは形作られる経験の方が遥かに重要であって、なんかそこらへん思い違いされてないか?ということが昔から多いなと。そういう違和感があったわけで。


 この基礎と知識の錯覚現象が何を意味するかって、RPGで言えばレベル上げ≒金稼ぎみたいなところはあるわけだけど、レベルを上げるのは個人の話なんだが武器防具をそろえるのは金の話となる。で、強くなるにもレベルを上げるのと武器防具を揃えるのと二方向あるわけだけど。
 人によってはレベルを上げる→お金も貯まる→武器防具も買いそろえられるという話にならない場合があるわけだ。
 「いやいや、武器防具を揃えれば強くなるんだから金で一式そろえた方がよくね?」そういう金で一式そろえれば強くなれるよねという概念がある、そして基礎というのはそれだと錯覚している節があるんだけど、大体そういう場合うまくいかない。なぜうまくいかないかって、強くなるという目的、その先にはボスを倒すという大きな目標があると思うわけだけど、たまに「強い武器防具を揃える」ということが目的かしている場合があると。武器防具を揃えてボスを倒すということが忘れられて、なんならレベル上げも忘れて、「武器防具を揃える」しかない場合があるわけだ。そこでは主人公のレベルを上げる事さえ忘れさられているし、こうなっては本末転倒じゃないかという感じなんだが、いや本当にそういうことがある。


 武器防具も大切だけど結局は己のレベルを上げるってことも重要なわけだし、なんならボスを倒すという目的を忘れないこともまあ重要だと思うわけだけど、そういうこと以上に自分の経験値を積むとか、レベルを上げようとかそういうことっていうのがいかに大切かってことがあまり意識されてないのがこの時代なのではないかと思う。これは何かって経験を積むといえばそれまでだけど、経験っていうのは非常に個人的なものであって、つまりは主観的なものだと思った時に、この時代「主観的」って非常に否定的な響きを持つ言葉になっているなと。「客観的であれ」なんていわれるけど、客観的って一体なによと。客観性についてはちょくちょく書いてきた気がするが、まあ大学の時から批判的にやってるから仕方ない。
 そういう意味わからんものにこだわるよりかは、主観的であることに徹底的にこだわり、経験を積んで己のレベルをガンガン上げていくと。で、知識とかコツを見ても「ああー(もう知ってるよ)」とか、「ああーやっぱ正しかったか」と確認する程度になるまでに己のレベルを上げてしまえばそういうものの重要性って誤差の範囲でしかなくなるし、その程度でしかないってところまで己のレベルを上げてしまおうという気概みたいなものは重要なんじゃないかと思う。


 ・そういうわけで冒頭の話
 「オレはどうしてもこのゲームクリアしたいんだ!教えてくれ!」
 これに関しては知識を聞いてやるよりは、痛い目に遭いつつまずはガンガンやってみるってことが重要なんじゃないかなあと思ったという話。







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