人助けってやつは究極的にコスパは悪いんだなとふと思った。
困っている時に人に助けてもらうことは非常にコスパがいいのだが、それを突き詰めていくと人を助けるということは非常にコスパが悪いということになる。言い換えると困っている時に利用できるっていうのはコスパがいいので「こいつ使える」ということになるのだが、自分が困っている時に利用できないとなると「こいつは使えん」ということになる。要するに人助けよりは「人助けられ」ってことになるが確かにこれは効率良く見える。やりたくないことは一切やらず、自分がやりたいことは1/2くらいの労力で解決できるのだから。
しかしこれをさらに突き詰めてくと、他人が困っている時には見捨てるのが当然ということになるし(というか自分で解決できないから助けを求める=結構厄介なことを背負いこまされる可能性があってめんどくさい)自分が困っている時には当然助けてもらった方が得なんだけど、これというのはコスパが非常にいいわけである。めんどくさいものはめんどくさいものであり避けて通りたい、そしてこっちの面倒は他人に処理してもらった方がいいに決まっている。
こうしたことを言い換えると「恩を着せる」あるいは「恩に着る」ということになるだろうし、あるいは「この借りは返す」なんていう表現になるのだろうが、これらはもはや死語と言った感じもあるが、こうした言葉があったということはそれなりの意味がきちんとあるわけで。それはつまり、他人の面倒を解決したらその人に恩を着せられるわけだから「後々お得だ」という計算がかつてはあったということだ。他人の面倒を解決したら「あーでもあの時助けてもらったからなあ」というようになって頭が上がらんからその借りを返しておこうかとなる……という判断が多少なりともかつてはあったのだろう。これを功利的あるいは打算的というのかもしれないが、これはこれでそれなりの理はあると言える。まあつまりは「情けは人の為ならず」というやつだろう。
そういう文化的なものが崩れた結果としてコスパが人間関係にも入り込むようになり、他人に面倒はかけるものの他人の面倒ごとには一切聞く耳をもたない……そうした一種のやられ逃げみたいな姿勢というのはこの時代の一種の特徴な気がするなあと思っていたら、考えてみるとこれ意外なほど数多く出て来たので驚いた。してみるとけっこうそういう風潮は強いってことになるのだろうし、それが賢い、スマートだ、あるいはコスパがよいという見方はかなり根強いものがありそうだ。
しかし、いやまあそれはそうなんだけどそれを突き詰めていくと困っていた時には助けたのにこっちが困っていたら助けない、こうあんるとこいつにはもう一生頼まん、二度と頼まんという例も増えるわけで。自分が困っている時は当然のように助けを求めながら、他人の面倒ごとからはさっさと逃げる。そしてこれはコスパがいいってのは果たして本当にそうなのか?と。それを武勇伝とか自慢として語る人も多いのだが……それにはつまりこういうことを忘れるほどに人という生き物はバカだ、どうせこういたことを時間が経てば忘れるだろうという前提であり他人への根本的な意味での侮りがあるわけだが(実際はこういう重大事ほどそうそう忘れたりはしないものだ)、まあどう考えても孤立の芽をまき散らしながら生きているようにしか見えない。
そう思うと、まあ現代なんて時代ではあるのだが少し前の価値観の人たちの方がよほど賢かったのではないかと思える。
新渡戸稲造がそういえば100年程度前にどっかで豪傑の話をしてたことがあったのだが、大切なものや高価なものを当時の人は破壊するというブームがあったのだと。こんなものは大したものではない、人の方が遥かに重要だ、素晴らしい生き物だ、したがってものは大したことはないのだと破壊するとか軽々しく扱う。そういう人間が大人物であり、豪傑だと評される時代があった、しかし新渡戸はこれは間違っていると指摘した。ものの価値がきちんと分かるのが人であると。高価なものにはそれなりの由来があるのだろうし、大事にされてきたものにはそれなりの意味がある、そうしたものをきちんと把握して踏まえることのできることが人として大切なことではないかというようなことを言っていたが。個人的にはこれに結構同感で、今のそのコスパの流れっていうのはかなり似たものを感じることが多いように思う。確かにコスパは重要だけど、誰もがコスパを推すあまりにこいつには二度と頼むまいというような態度とか姿勢というものを感じる場面というのはかなり多い気がする。で、コスパ追求のあまりにそういうのを撒き散らすということを全く顧みないような人間、そこまで思慮の回らない人間が果たしてどこまで賢いのかというのは思うところである。
それよりは愚直でありながらコスパ度外視でいろいろやってくれる人というのは確かに愚かしく見えることも多いのだが、この人というのはコスパ的には決して賢くはないかもしれないけど、人としての信用ではコスパをいう人を遥かに勝るものがある。人としての根本的な信用、そういう意味での物差しの多さ、豊かさであり価値の測り方、あるいはテクニック的なものでさえも貧相になっているのがこの時代の特徴なのかもしれないとも思う。
……ま、新渡戸が思ったような「全く近頃の若いもんは」というのをこうして形を変えて言っているだけなのかもしれないけど(笑)どの時代だってこういうことを言いたがるやつがいると思えばそれまでではある。
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