断片的なメモを繋ぎ合わせたもの。
なんか繋がりがあまりうまくいってないが、まあまとまってなくてもとりあえず書いておこうというもの。
・「自分の頭で考えろ」などというが、自分の頭で考えたとしても全く意味を為さない場合が往々にしてある問題がなぜなのかを考えていた。実のある(というか効果と結びつく)場合とそうでない場合とがあるのか、何がそれらを分かつのか。
・ところでエリートというのは先駆者がそこそこ成功しているパターンなので、後継者も前提として成功の道を歩むという当たり前の前提があることになる。理屈上は成功からのさらなる成功というパターンになるのだが、なぜかこれに関してはパッとしないことがある。これを考えてみるに、失敗の数がどうしても少なくなるというのは一つの要因として挙げられるだろう。先駆者はよくわからんので手探りだが、後継者はそうした無駄はもうする必要がない。それはムダだよとわかるだけにムダなことをする必要がない。ある程度予測がつくし、予測がつく以上ムダを減らすことができ、その結果当然合理的な選択を選び続けることができることになるはずである。ところが、なぜかそううまくはいかない。なぜそうなのかって、恐らくはその合理的な道の上で失敗をすることができないから。失敗というムダ、そもそもがムダなことをできない、これらによって頭を悩ませることは少ないが、個人としての絶対的な経験量はどうしても減る結果を招くことになる。
従って、成功の先における後継者というのは意外とその長所を活かせない、あるいは活かしにくいという状態へと恐らくは繋がりやすい。時代が下って技術も進歩したとすれば、なおさら同じ轍を踏まぬようにするものであるわけで、わざわざあの時はうまくいかなかったことを今更繰り返してやるというのは好奇心とか知識欲以上に、いまさらそんなムダなことをするのかという意味で我々のプライドが許さない。従って失敗というムダなことを、しかも再度敢えてやるということを我々はそう簡単に許すことができない。
・考えるということはどうしても正解へと寄り添う作業だと言える。しかしその意味が開拓を意味するのか、それとも二番煎じなのかは全く異なる結果を招く。それは画期的な手なのか、それとも安定を志向するのか。刺激のためか、安心を得たいがためか。考えるという行為とも呼べない行為は常にそうした岐路としての意味合いを持つものであるということ。
そして考えるということが正解を常に志向する以上は当然先駆者の、前社長の影を追いかけるような意味合いを持ちやすい傾向はある。この時前社長は≒正解なのだが、しかし同時に前社長≠正解でもある。前社長を意識していればほぼ間違いはないという安心感はあるのだろうが、しかし99.9%は一致するものであるにしろ0.1%はズレが生じ、そのズレを解消できぬまま進むことでそのズレが広がっていきとうとう手に負えないところまでくるものの、しかし相変わらず前社長の影を習慣として追いかけ続けるということはあっても不思議ではない。こういう正解とほぼ等しい何かを追っていながら、しかし何故追っているかを忘れてしまいただ習慣として別物を追うという傾向は人には良くあるものである。錯覚し続けてひたすら影を追いかけ始めるというか。
正解を示せてきたことはもはや過去の遺物なのだが、しかし過去の遺物でしかないと切って捨てることはなかなか難しい。まして日本社会は先駆者を崇め奉り過ぎる傾向がかなり強い。そして正解というものを常に追い求めるのは現役の人間の特権であるのに、その地位を捨てて、まるでドラえもんに素晴らしい道具をねだるのび太くんのようにただ正解を与えてもらう地位を作りたがる。そして答えを誰かに与えてもらうことを望み始める。これは恐らく本質の一部で、我々はこうして正解への開拓者となれる特権的地位を放棄して、社長の息子はバカ息子という地位を自ら選び取る。
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