この世界を愛する資格






 なんてことをふと思った。


 かつて1000万ほどマイナスを背負った時はもう青息吐息で、死ぬっきゃないんじゃないか、生命保険かけて首を吊れば生命保険が認められるという事情も知った、だから日本は自殺が多いという事情も知った、そういうギリギリの淵にいたもんだったが、一山越えてみるとなんてことはない、喉元過ぎればなんとやらである。
 結果良ければすべて良しってやつか。


 なんとなく当時を振り返ってみるとそりゃあ地獄のようだったが(笑)、でも果たしてどれだけの人が敷かれたレールから外れてそういう地獄の淵を歩いたり覗き込んだりするものなんだろう。時々聞こえてくるのは自殺したりするバカなやつがいるってことだけなんだけど、そういう人が果たしてどういう心情だったかなんて多分一生知ることはない。レールの上を歩いていればいずれは死ぬだけのこと。そう考えると確かにそういう経験は必要だったと思うのだ。人が強く、たくましく、図太く生きようと思えばレールを外れることも必要。
 そういう前提で、初めてこの世界を愛することができるようになったような気がする。地獄の手前で人は岐路に立つ。
 生きるか、死ぬか。それを自分の選択で、極限の状態下で選び抜かなければならない。誰も助けてくれやしない、泣いたってお金が減るわけでもない、そしてこの世界にはそういう場所へ他人を突き落とすことを喜びとする連中はいる。全ては罠だったと知っても、もうすべてが遅い……
 オレは「たまたま」そこで生きることを選んだ……っていうのは、今考えるとそれでもやはり死ぬのは怖いってことくらい選ぶ事情がなかったんじゃなかろうか。しかしそれが3000万なら、5000万であったならば。1億と引き換えにすれば、お前が死ねばすべては助けてやると言われたならば。死んでいたかもしれないし、あるいはみっともなくいぎたなく恥をさらしつつも生きながらえていたかもしれない。そういう条件下で絶対に生き残ってやるというほど執着心が強い人間というわけでもないんだなというのはなんとなく感じた。ある意味死神が右肩と引き換えに命を助けたという感じなのかもしれない。
 まあでも死線をくぐり抜けるととうしても鈍くなる。優しくなったような気がしない。というより、多分今後同じ場所に立つ誰かに対してオレが言えることは「大丈夫、なんとかなっから」と言って放置。それは冷酷でも残酷でもなく、なんとかなることがわかっているから。だから当然見捨てる、というかそういうことは各地で日々起こっているわけで、そんなのに首を突っ込んでいたらいくつ命があっても足らん。しかしその地獄のもつ地獄っぷりにおそれ慄いてたじろぎ、脂汗を流し、涙を流していたとすればその気持ちは本当によくわかる。その辛さが。だからがんばれとは思う。
 でも人生は同じことの繰り返しなんじゃないだろうか。まるでそれというのは小学校の時に、高い跳び箱を前にしてたじろぎ、怖くて走りだせず、あるいは走り出したはいいものの跳び箱をどうしても越えることができず、立ち止まり、たちすくみ、右往左往する……そういうことと果たしてどれだけ違うのだろう?全然違うよ!と言われそうなんだけど多分かなり近いと思う。そしてその跳び箱に立ち向かうにしろ、あるいはムリだと諦めて逃げるにしろ、そのどちらを選んだとしても人生はどちらにしろ続いて行く。勝ったぞ、オレはやったんだ、あのでかい跳び箱をやっつけてやったんだ!という高揚感とまるで王者にでもなったかのような至福の思い、オレはできるんだ!という感情を抱いて勝ち馬のように生きていくこともできる、ダメだ、あんなでかいの飛び越えられない、ムリだ、頭がおかしい、もっとほかにやることがあるだろ、あれができたら他のものはきっとできなかったりする、人生は平等なんだなどと自分に言い訳をし、言い訳はするものの要するに負け犬として生きていかねばならないその辛さを抱えたまま生きることもできる。そのどちらを選んだとしてもその先に人生が続いている。これほどおもしろいことがあるだろうかとすら思ってしまう。


 まあそれに真実もわかる。「神は人に越えられない試練は与えない」とはいうが、いざ1000万くらい負債を背負った時に果たしてこれがどれほど役に立つ素晴らしい言葉なんだろうかとも思うし、なんだったら自分がもし負ったとしてこの言葉を掛けられたらどう思うかってのもあるし、なんなら1億くらい負債を抱えて首でも吊って攻めて家族だけはと思っているような人にこの言葉を掛けてみたらどうだろうと思ってしまう。
 多分ぶん殴られるんじゃないだろうか。





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