盲腸






 ふと、そういやドクターKに腐ったみかんの話があったなあなどと思いだしていた。
 「(不良連中のことを)あいつらは腐ったみかんなんです。一人でも残っていたら他の連中にもうつってしまう。だから早めに排除しないといけないのです」
 その先生に対してKは手術をする。そして盲腸の話をする。
 盲腸というのは本来なくてもいい臓器と言われているものの、いらないからといって我々人間は切り捨てることも選べたはずなのにそれを選んでこなかった。
 切り捨てていいはずのものを敢えて残してきた人類の身体の選択を感じませんか?みたいなことを言う。先生は、ああ切り捨てればよくなるとさっさと切り捨てて解決しようとした私のやり方は浅はかだったのかもしれませんね。そんな感じの話。
 そういや最近盲腸は腸内細菌の逃げ場所なんじゃないか説があったなあ。


 ・この社会にもそういった「盲腸」は数多くあるのではないか。ふとそんなことを思った。
 例えばいじめ。
 私の世代も、その前の世代も、なんなら祖父の時代にだって撲滅しようとすることはできたはず。時々これはという悲惨なものが起こり、もういい加減にやめましょうやと一過性の熱は起こるものの、結局一過性で終わってしまう。一過性の正義感を焚きつけるだけ焚きつけて、いいこと言ってるわという正義感だけを満たし、そしてそのまま終わる。
 これをやる気がないとか、本気になってないというのは容易いんだけど、ふと思ったのはそういうことではないんじゃないかと。我々の人としての道には明らかに背いているんだけど、というか起きているのはいじめなんてものじゃなくれっきとした犯罪だろうと思うものの、しかしそうして大々的になることの方が珍しかったりする。


 あるいはこういう名言もある。「加害者にだって人権はあるんです!」つまり被害者は一人かも知れないが加害者は10人いる、つまり10倍重いし10倍価値があるので被害者一人のために10人の人生をふいにはできない。
 まあ大変胸糞が悪くなるような話なんだが(笑)、そういう胸糞の悪さというものを飛ばして考えると、言いたいことはわからんでもないなというある種の理屈は確かにあったりする。全く使うべき場面ではないのだがKの言うところの「切り捨てようと思えばいつでも切り捨てられたはずなのに切り捨ててこなかった」人間の、いや社会の営みであり社会というものの選択、そして社会自体の意志を感じる。そういうものを早めに取り除いておけば被害は出なかっただろうものを、しかし敢えて残してきた。まるで、誰かがその犠牲となることを肯定するかのような、多産多死の時代にあった「子は天からの(一時的な)授かりもの」と考え死を割り切っていこうとでもいうかのような。あるいはそういうことを乗り越えて人は強くたくましくなるとでも言いたいかのような。そして時限爆弾のように、誰かが犠牲とはなるもののしかしオレには起こらないだろうという姿勢でこれを保存・維持することをこの社会は選んできた。
 当然いじめというものへの否定的な見方は数多くあるだろうしそれが主流だろうが、こうして消えずに生き残ってきたこと(というより残してきたこと)を考えるにそれなりの肯定の論拠の方があるんじゃないだろうか。フランスなんて子どもでも犯罪扱いされるほど厳しく取り締まられるというのに、このご時世になってもそれを日本は導入しようという気がないらしいから、まあ本当にやる気がないのだろう。
 まあ当然、いじめ問題の肯定なんて今のご時世表立って言われるようなものでもないのだが(言われる言われないは別にして撲滅に尽力しろと言いたいのはわからんでもない)。

 ・まあしかしこの分野、首を突っ込まない方がいい分野ってのはあるのだろう。
 大人でさえ正義感から入って出て来た時には「こんな要領のいい世界があるのか」とお腹の底まで真っ黒になって出てきたヤツもいる。
 あるいはいじめの話を聞いていたらうんうんと正義感をもって聞いているうちに、正義感に火がつきすぎて「いじめられるのはいじめられるようなやつが悪い」と今の話聞いてたか?というような暴発をするヤツもいる。
 きちんと聞いたはいいものの、じゃあどうするかって方向性が分からず聞くだけで終わり、そこから暴発するヤツもいる。
 要するにこれに向き合う力もなければ解決する力もなく、アドバイスをするほどの力もなければ経験もないってのがある種の本質なんだろうし、全てを遮断して不登校ってのは意外と理に適った正しい答えな気もする。


 ・こうしてみていくといろいろな排除の論理ってのはあるらしい。いじめ自体がそうだし、戦争だって相手の主張が気に食わないから武力でいうことを聞かせようという理屈。正義感の暴発だってこの排除の論理が形を変えたものだろう。
 いじめ自体が間違っていると言いやすい反面、その背景にある排除の論理がそう簡単に否定できないことがこのいじめ問題をそう簡単に否定させないんじゃないかなと思っているところ。


 ・なぜこの排除の理論を考えるかって、一昔前の自分を考えるために必要だからなのだが。
 とんだお人よしで時間も体力も削っていろいろやってたのだが、そういう人間が犠牲になることによって回る世界は確かにあるということを思い知らされた。あの時は間違いなく殺しにきていたし、このままでは殺されると思ったものだったが。


 今思えばそれは間違っているとも思ったのだが、絶対に間違っていると断言しきれないところに苦しさがある。というより、結構正解だったりするのだ。人は誰だって誰かや何かを犠牲にして生きている。そういう犠牲の上に毎日成り立ってながら、毎日他の生物の死骸を食らっていながら、その実態を肯定していながら、その理屈の先で自身におきたことを否定するというのは難しい。恩恵に縋っていながらそれが気に食わないと急に否定するなんてのはえらい身勝手な話である。
 そしてそうした排除されるもの、存在があって確かに回る世界はあるし世界は確かにそうした犠牲を糧にして回っている。そうして突き詰めていくと、オレは確かに排除されるものを何とかしたい側にいたはずなのだが、排除されるものがある世界は意外なほど正しいということを恐らく認識しつつある。というより、かつての自分自身でさえもそうしたものがあるがために、そうしたものからなんとかしたいと思うがゆえに行動していたわけで、ある意味ではそれは不幸にたかる寄生虫となんら変わりがなかったりする。それを正義感といってコーティングしたりもしているものの、一旦化けの皮が剝がれるとなんてことはない。不幸を何とかしたいと思うことが不幸にたかるハエのようであり、非常に醜悪なものだったと今では思う。人助けという正義感からスタートし、出口は人の不幸に群がるハエでしかなかったということだ。
 この不快極まりない醜悪さは一体何なのかと思うに、そこにもしかしたら「盲腸」はあるのかもしれん。人は確かに愚かな生き物なのかもしれん。死んでも直らないバカであることが人たる所以なのかもしれんなどと思う。
 そうであるならば同時に、その愚かさを認識したうえでその愚かさを最大限生かすための生き方をする、犠牲は決してムダにはしないという覚悟こそが必要であり、そうした人間を中心として世界を回すのだという決意が必要なのかもなあと。人は盲腸を捨てることを選ばなかったがゆえに、逆に盲腸を捨ててでもやらなければならないこともある。もしかしたらそういう生き方もあるのではないか。そしてそういう生き方を確かに人はしてきたのではなかったか。


 かつての自分とその出来事を振り返ってふとそんなことを思った。






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