ふとそんなことを思いついた。
まず前提として賢いのはそりゃいいに決まっているし、愚かなんて誰だっていやに決まっている。
その次の段階としての話になる。
・賢く目端が効いて、ここでこうすれば得だなという手を打つ。それも行き過ぎると他人を犠牲にし自らだけが得をするような手を打つ。自らの利益を最大化し、他人の利益など一切顧みない。
それというのは非常に賢いんだけど、それも行き過ぎると反感を買う。頭が良く、事態をよくわかることが利己的な態度と重なって反感を買う、そういう時に人はどういう評価をするかって「狡猾である」と評価をする。頭がいいという戦術眼であり、局地での勝利が最終的に理想的な結果に結びつかない場合だと言える。こうして評判を下げ、信用を損ない、その結果として皮肉にも損を背負いこむことになる。確かに頭はいいのだ、悪くはないのだ。
しかし結果から見れば最も愚かな結果を招いたに等しい。賢いといっても所詮その程度のレベルだともいえるだろうし、あるいはそういう結果に至った以上は賢くなかったということもできるかもしれない。あるいは利益に(のみ)敏いということもできるかもしれない。
・あるいはどう見ても愚かな場合がある。
もっといい選択はいくらでもあったろうにと傍から見ていて思うのだが、バカだなとしか思えないのだが、でも愚直なまでに一本気に己の道を貫き通す人がいる。明らかに損だなと思うし、得を得ない道なんだけど、しかしその愚かさというのは人の心を惹きつけるものがある。
賢くありたいと思うのは誰だってそうだろうし、オレだって昨日より今日、今日より明日と思って日々勉強に次ぐ勉強なんだけど、しかしふと思うのだ。
賢さを極める道の先に一体どういう未来があるのだろうか。賢くありたい、より進歩したい。それはわかる。しかしそれは当たり前の話。人の心を強く動かすものはむしろ愚かさなんだと思う。愚かにも、愚直にも己の道を貫くように見えるその愚かさこそが美しいと思うし、それよりなによりも思わされるのは。人は賢さのためには死ねないけれど、愚かさのためなら死ねる。愚直なまでの生き様のためなら死ねる、そして同時にそのためにこそ生きたいと思うし、それを知りつつ賢さを言うなんてのは、それこそ最も愚かな話なのかもしれない、などと思うのだ。
そういうわけで生への憧れというものは常に愚かさの方を向いている。
のかもしれないなどと。
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