怒りと憎しみ






 先日話をしつつ思ったのが、怒りと憎しみの話。
 どれだけマイナスに見えても思えても、実際には何かを得ているはず、成長しているはず。
 そういう要素を抉り出していくと確かにこの怒りと憎しみという二つの要素がオレの中にある、というよりオレという人間を支配している要素の99%はこれだなという感じ。


 ところでじゃあ憎しみってそんなに悪いのかというとむしろそうではなく、実際にはプラスに作用することの方がはるかに多い。意外なことだけど頭は冴え渡り、行動力にも長け、それを可能にするだけの圧倒的なエネルギーを手にすることができる。こんなに手軽でいいのかと思うけど、憎しみに支配される前のオレが凡人だったとするならば、今のオレは遥かに優秀な人間になっている。レベルが一桁違うくらいに。


 しかしじゃあ運はどうなのかというと、明らかに悪い。というか考えればわかることだが、憎しみの先にあるものというのは滅びでしかない。古代中国でも例えば伍子胥(ごししょ)なんかは典型例だし、越王勾践(こうせん)も臥薪嘗胆した結果呉を滅ぼしたがその後はパッとしない。あまり取沙汰されることがないけれど燕の昭王なんかも復讐の鬼だったが、しかし斉が滅びかけた時に死んだことで復讐の鬼という面が取り上げられることは少ない。范雎(はんしょ)は秦に仕えたが、祖国と己を辱めた人間に復讐するためならばどんな手でも使った。劉備玄徳は復讐の鬼となったが、その結果として滅んだのは劉備の方だった。

 そういった具合で憎しみの先で滅んだ人間は枚挙に暇がない。その一方で古代中国で一族皆殺しみたいな制度というのは合理的というか、憎しみによって滅んでもいいから復讐をするという人間をこれでもかというくらいに恐れてきたのが実際だろう。まあそういうわけで、そのどちらにせよろくな死に方をした者はいないし、ろくな人生を歩んだ者もいない。死ぬ者は滅ぶし、生きる人間の側も枕を高くして寝られた例がない。
 そういうわけで、怒りと憎しみは人を優秀にする。これに支配された人間で成功できなかった人間はいなかったのではないかというくらいに。

 しかしじゃあ滅ぶのは最後だけかというとそんなことはない。一日一日がムダがない、しかし豊かな人生かというとそんなことはない。恐らく憎しみの本当に恐ろしいところは、己の一日一日を食い潰しながら生きていくということを意味するところにある。確かに目指した結果には到達するし、オレはこの人生の先で100%成功するだろうし、なんなら巨万の富を得る、そしてその確率は誰よりも高い。しかしじゃあそれが華々しい結果なのかというとそうではない。実態としてはボロボロに食い潰された豪邸のようなもの。
 だから憎しみに支配されるというのは己の内にシロアリを住まわすようなものなんだろう。己をボロボロに食い散らかす、シロアリのそのエネルギーと疼痛がエネルギーとなるのだ。しかしどれだけ豪壮で素晴らしいものに見えても、それは所詮見てくれだけの話、内部はスカスカのボロボロになる。憎しみによるエネルギーなんて所詮はそんなものなんだろう。憎しみは運が悪いんだろうなというのは、恐らく100%間違いなくその先で滅ぶから。人は確かに100%死ぬが、死んでも残るものは確かにある。しかし憎しみの先には何一つ残らん。そういうものを財産と呼ぶなんてことほどバカげたことはない。


 まあなんかそんなことを思った。凄まじいエネルギーだからといって浮かれているとこのままではいつか滅ぶと思った時に、そういう視点から改めて古代中国を、というか史記を眺めてみるのもいいのかもしれない。






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