幸せな戦い






 人生日々戦いだと思っているわけだけど、他人とは何かと思った際に、もし失敗して悪いことが起きた時に「あいつが悪い」と言える戦いっていうのは幸せな戦いなんだなとふと思った。


 オレは悪くない、あいつが悪いとはっきり言えるということ。結局社会にいれば10年20年と経過すればいやでも成長するわけなんだけど、まあ人はそうして成長するわけだし、成長してしっかりするからあいつが悪いと言えるような戦い方をするし自然と生み出すし編み出す。非の打ち所がない戦い方法を見出す。悪かったのはオレじゃない、あいつが悪い、あいつのせいだとどこかで言えるような戦いをする、それができるってのは幸せなことではあるんだけど、でもそれって自分の成長に結びつくか?と思う。非の打ち所なく自分が100%悪い、いわゆるぐうの音も出ないというようなやられ方っていうのは非常に不快であいつのせいだとどっかで言いたいんだけど本当に頭痛もするほどなんだけど、その他人を責める余地が全くないわけだ。これは幸せな戦いではないけどつまり不幸な戦いだと思えば、でも決してそれは悪いものではないということに気づかされる。不快なんだけどその不快成分を一身に受けているわけだし、じゃあ次そうならないように努力しようよともなる。結果としては悪いんだけど、過程としてみるとかなり悪くない。
 これは一般的な成長とは別物だとは思うけど、しかし同時に自分の裁量でやって自分の裁量で失敗するということは社会的な成長ではないとは思うがしかし健全な成長ではあるのではないかと思うのだ。どっかであいつのせいだ!と言える余地のある戦いをするってことは結局のところあ自分に甘い。そういうものの先にある人生がどういうものなのかを思うと、幸は不幸の始まり、不幸は幸の始まりなんて言った昔の人はたいへん偉かったのかもなあなどと。
 まあ目先の快不快一つを基準にして自分の成長機会を失うことをひたすら選ぶってわけだからそれを日々選んでいるのは自分自身なわけで、そりゃあ日々の過ごし方で差も出てくるというもの。とはいえそういう「幸せな戦い」というこの矛盾した言葉の上を生きるということは裏返せば自分の成長に全くこれっぽっちも期待してないってことだから、それの果てに本当に幸せや安住はあるのか?とも思う。


 とは書いたものの、自分の人生であり自分の成長に期待をして生きる……というほど過酷なことはないという人生も中にはあるだろうから、そういう可能性も考えることも大切なのかも。


この記事へのコメント

にほんブログ村 ゲームブログ ゲーム評論・レビューへ
にほんブログ村