蒼天航路170話くらい。
・劉備が中国をあっちへこっちへと移動していたのは、どこか重耳という人を、どこか重耳という人の人生を念頭に置いていた節があったのではないだろうか。いや、もちろんそれは単なる一身上の不遇に次ぐ不遇でしかなく、身の置き方に常に困っていたのが実情ではあろうが、今度は徐州、今度は荊州と流浪の旅を続けていたその心中には重耳を思えというものがもしかしたらなかったろうか。
重耳を思えと。長い間の流転を繰り返し、晩年にはとうとう中華の覇者となった。せっかく手に入れた土地を呂布に奪われ、曹操に奪われ、ようやく小城が手に入ってもそこから出なければならなくなる。北には袁紹、中原は曹操、南には孫策。こんなことで一体どうなるものかとため息の一つでも出てくるような心情だっただろうが、そういう時だからこそ心のよりどころを必要とした。そういう時にあったのが恐らくは重耳の逸話であり。
流転を繰り返すのは吉兆ですと。苦難にめげず、目的をもって意志を強くもったがために重耳は中華の覇者となったのですということを恐らくは関羽あたりが説いていたりするんじゃなかろうか。へえー、そうして天下を取るとはたいそうめでたい爺さんだね、じゃあオレも重耳になれそうだ、こいつはめでたいというようなことを流浪の旅の道中のどこかでふと思い語ったということがあったのではないか、などということを思いつつ読んだ。
別にどこかに書いてあったわけではないが。
・軍師というものっていうのは、不要な存在と言えば不要な存在だといえる。何もしないで喧々諤々、議論はするものの別に戦場で率先して戦うでもなければ弓を撃つわけでもない。秦の始皇帝は学者を叩き出したり焚書坑儒していたりするが、基本的には軍師という議論はするものの他に何かするでもない、口だけ出すが基本的に無責任に好き勝手言いまくるだけの存在を相当疎ましく思っていたに違いない。ただ飯ぐらいの給料泥棒とすら思っていてもおかしくない。
春秋戦国時代、そして漢代を考えるとこの始皇帝という天才は恐らく軍師という存在を基本的に不要と考えたろう人であり、李斯なんてのがいはしたがそれは例外中の例外であったろう。
そう思って行くと、曹操という人の下には確かにたくさんの優秀な人材がいた。戯志才、荀彧、荀攸、郭嘉、程昱などの軍師がいたし、ここに典韋や許褚などが混じっているということはない。考えて見ればこれはけっこう驚くべきことで、曹操は確かに人を選び、選り分けていたということがわかる。ゲームならともかく、この現実において能力で人を分ける、こいつは頭がいいと選り分けるということがいかに恐ろしいことか。そしてそれによって突飛な意見、あるいは妥当な意見というものを出させた。ここはどうするのがベストなのかを意見を出させたし、その意見を取捨選択し実際に活かそうとした。優秀ったって口の立つだけの者もいれば、うまいこと言いくるめるだけが能の者もいただろうが、曹操は確かに何らかの基準をもって優秀であるかないかを見分けていたのだろう。そしてこれが功を奏して、中国の2/3を支配するまでに至る。
考えて見るとそれは袁紹も同じ、いやそれどころか田豊などの今張良などと呼ばれた人材が一応いたはずなのだが、悲しいことに田豊が投獄されない三国志作品を今まで見たことがない。こんなことは序の口で、郭図が好き勝手に讒言したり許攸が寝返ったりと悪い意味で袁紹陣営の軍師たちは個性が立っている。曹操陣営とはまた違った意味で軍師が百花繚乱状態となっている。
しかし田豊を高く評価できなかった袁紹がおかしいというのはゲームに偏りすぎで、知力99とかわかりやすいならともかく現実はそういう数値など全く示されないわけで、袁紹を責めるのは酷すぎるのではないかと思える。それに田豊にしても、人の心の機微などあるわけだから正論をずけずけ言って不興を買って投獄……となる前に袁紹陣営から去るという手は本当になかったのだろうか。そういうこともなく袁紹に固執するとなると能力を疑わざるを得ないし、そもそもなぜ袁紹を選んだのかというのも疑問であり、曹操という能力を求める者の話を聞いたことがなかったとすれば、ちょっと情報収集に長けていなかったのではないかと思える節も出てくる。
あまり袁紹軍のあらを言うのもあれなんで戻すと、軍師と将軍の違いは何かって知力と武力の差だということにもなりそうだが、現実には大局と局所の差であり、戦略と戦術の差であるともいえる。この差を埋めるということがいかに難しいかということであり、局所戦では勝っても次で衰退し滅ぶということがいかに多いかということでもある。
それに春秋戦国時代というのは優秀な将軍が勝ったゆえに追放されるという例に枚挙に暇のない時代でもあり、白起は死なねばならなかったし、楽毅は追放されなくてはならなかった。王翦は褒美をねだらなくてはならなかった。優秀であるがゆえに使われるのだが、使われて実績を残せば死ぬか追放しかない。そういうものを踏まえて漢に向かうものの、張良や陳平は中央からその優秀な将軍を駆逐するために力を発揮していた節がある。その結果、劉邦は優秀な将軍を欠いたまま匈奴に立ち向かい窮地に陥ったこともあるほどである。優秀であるがゆえに使いたいのだが、優秀であるがゆえに困るのである。
そういう前提で、曹操と一時期までの劉邦陣営はかなり近いものがある。ここに分析をしていきたいのだが、長いのでまた後日。
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