最近蒼天航路というマンガをちょっと読んだ。三国志のマンガなんだが、これ20年くらい前に勧められていたのをふと思い出したという。大学の頃はそういう余裕は全くなかったんだが最近はスマホで隙間時間に手軽に読める時代になったから、こういうところに時代の進化を感じる。
内容は仮想の三国志というイメージだが、しかし果たしてこれは仮想と言い切れるものなんだろうかと思った。AだからB、BだからCなんて我々は理屈で考えられるわけだが、その当時どこまで理屈らしい理屈があったかはかなり疑問だ。そういう意味では幻術だとか天だとか、あるいはそういう根拠ではなくただ自分がそう思うからという根拠のない自信で突き進む時代があったとしても不思議ではない。そういう意味ではいわゆる三国志三国志したものの方が余程仮想的というか、現実に基づかない可能性はあるのかもなあ、という意味では史実らしさの方がよほど史実らしくないのかもしれんと思い直したという。
そして内容とどこまで関連性があるのかは疑問だが、合わせるということが妙に印象に残った。別に内容には全然出てきてない気もするのだが(笑)、まあとにかく思った。
我々が生きるって言った時に、自然と合わせる思考というのが出てくる。正しいものに合わせる、長いものに巻かれる。より点数を稼ぎ、より最もらしいものに合わせていく。教育っていうのはそういうお手本を示し、合わせさせていくということの繰り返しだと思った時に、これは社会的にはより良く作用するとは言えるのだろうが、個人個人として考えるとどこまで素晴らしいものなのかは疑問だと思った。
三国志じゃないが、ここに出てくる個々人は好き勝手自分の信じるままにテキトーに生きているというのに、我々は何が正しいかを感じ取り、合わせ、そして「より良く」生きようとする。まるで我々人間が一人一人が一本の木であろうとするよりは、それらはすべて間違っており、正しい木に従って生きる……一種のツタでありツルになって他人に絡みついて生きようとするかのようであり、そうした傾向が果たして人間本来の生き方に対してどこまで正しいのか、健全なのかが不明だなと思ったという。
ふと思えば、オレ自身がそうで、正しいもの、より良いものというのは常に小学校の時からあったわけで、それに比べてなんと出来の悪いことかと自信をなくし、自信を持ったら持ったで、果たしてこれでいいのだろうかと常に迷いを持つようになる。お前は正しくない、合わせろの繰り返しによってオレの生き方は果たして正しいのだろうかと疑心暗鬼になり、それが習慣化し、そういう生き方になっていく。正しいものに絡みついて生きるようになっていくわけだ。それはプラスに見れば向上心に限りなく近い何かであり、マイナスに見れば人としての生き方の根底を否定されているわけだから極めて健全ではない。みんな違っていいというものではなく、正しいもの以外はクズであるということを結果的には教育が認めたということに他ならないことになる。そういう教育の影響下で育つということが果たしてどこまで人として豊かな生き方であるかというのは疑問である。
これは半面。
もう半面というのを考えて見ると、合わせる側の人間とは別に、理想に限りなく近い側の人間というのはいた。まさに生きる模範と言ってもよく、何かに合わせる必要のない人間であり、劣等ではなく優等の側にいた人間である。大会に出れば活躍し、好成績を残し、なんなら記録を塗り替え、教える教師も鼻高々……もはや非の打ちどころがない。しかしそうした人間というのはその後が全くパッとしない傾向がある。これは何を意味するのか。いわゆる早熟タイプの人間が大器晩成によって取って代わられるということだろうか?その持てる才能を早期に枯渇させたがゆえにパッとしないのか?
恐らくはそうではない。彼らはその優秀さと引き換えに、何かに合わせる能力というものを恐らくは10年以上全く育てることができなかった。合わせる能力が完全に欠落しているのである。この社会という過酷な環境を生きる上で、適応能力が皆無というのは通常の歩行能力を欠落させられたに等しい。
そしてこれは恐らくは決定的な要因ではない。というより、こうして書かれた内容というのは既に彼らにとっては熟知されている内容だということ。これが重要である。なぜなら彼らは優秀だから。適応能力の重要さなどということに一切気づいてないということはよほど鈍感でなければあり得ない。じゃあ何が彼らを適応能力の側に進ませなかったのか。結論として彼らは合わせる側の人間ではなく、合わせられる側の人間であるということ。これが重要なのだろうと思うのだ。常に選ばれた人間、選ばれる側の人間であった者にとって、常に合わせられるということが誇りであり、優越感でもあった。その自覚は節々から感じられる。あくせくと努力するなど、みっともない。そういう人間もいるが、オレはそうではない。優雅であり、悠々と構え、そしてそれが許される人間であるべきだ。
そういう選ばれる側の人間が、選ぶ側に回るという、これほど屈辱的なことはない。それというのは生きる上で自分と同化してきたものであり、言ってみれば茎、根幹部分にもはや一体化しているものである。そういうものをへし折ってまで生きるということ、状況に、事態に屈するということ、己が平凡どころかその能力が欠落していることに気づかされること、その耐え難い屈辱を前にして、平凡であるならばオレは外れ値でありたいと思うのも最もの話である。そうして優等という外れ値ではなく、没落という外れ値を自ら選び取る。己が選ばれた人間であるという誇りにかけても、平凡の汚名をかぶることなど絶対にできないことなのだ。
こうして外れ値というものを考えていくと、オウム真理教にしろ闇バイトの指導者にしろかつてとてつもなく優秀だったはずの人間が数多くいるというのは恐らく決して偶然ではないのだろう。彼らの根が根っからの性悪だというケースの方が少ないのではないだろうかと見ているところ。いや、そうであるよりはかつて華々しい活躍をしていた人間が社会に出る前に己の平凡さを認め受け入れることがどうしてもできず、平々凡々であるよりかはかつての栄光よもう一度ということで、優等という外れ値ではなく犯罪者の親玉という外れ値を選び取る。平凡の汚名を甘んじて受け入れるよりは犯罪を選ぶ。そういうことってあるんだろうなと思う。
そういうわけで、合わせる人間は合わせる人間で病んでいるが、合わせないでいい人間も内在的に破滅の芽を持っている。それをすくすくと育てつつ大きくなっていく。
そして幼少期からほめそやされて、そうした破滅の芽を摘まれてない人間というのはまさに真の不幸、その恵まれた才能をプラスではなくマイナスに発揮させる運命を持つと思うので、そのどちらでもないその中間層という名もなき大多数というのは実に幸せなことだと思ったという話。
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