花か実か






 タクティクスオウガの結構重大な発見をみつけたので書こうと思いつつも他のことを書かねばと思ったので後回しに。まあそれにしてもまだ意外と出てくるもんだなあってのに驚いているところ。前回書いてから多分1年くらい経ったか。まあ近々書きます。まとまってないけど書いておけば自然とまとまってその次が出るだろうと思っているところ。


 ・さくらんぼの木ってのが家にあったのだがこれを婆さんが切ってしまったらしい。恐らく5年以上になってけっこう大きな木であり、ぼちぼち実が取れるかと期待していたところがこのありさまで、「あの桜の木はもう枯れているから切っても悪くはあるまい」と判断して切ったという話でみんなカンカンになっているのだが、個人的にはそれも最もだなという節があったので書いてみることにする。


 ・爺さんの死があったのがもう20年近く前になるのだが、この葬式ってのがたまたま異様な葬式だったのを漠然とながら覚えている。
 日は暑くもなければ寒くもなく、程よい気温でまさにうららかを体現したような日だった。桜の花が満開で咲き乱れており、なんなら時々桜吹雪が舞っているほどだった。そして庭にはたくさんのウグイスがやってきており、あちらこちらでいい鳴き声で鳴いている。
 来ている客がああ、こりゃいい葬式だわ、生前の行いが良かったからこういう葬式になるんだ、うらやましい、私もぜひ葬式はこうでありたいものだなどと言っていたのを覚えている。
 個人的にはふーん程度だったのだが意外とこの話された内容が印象に残っていて、そういうもんなんだなあと。そういやある時には、不慮の事故で死んだ人の葬式でにわか雨と雷鳴雷雨、こりゃあなんとかさんの無念を表すものだなどと一同震え上がったところが5分もすればたちまち空は晴れ上がり、雲間から日光が差し込み始める有様。そういうことから何かを慮ろう判断しようとする文化というのはどうも確かにあるらしい。


 話をもどすと、つまり理想的な死と葬式というものは確かにあるらしい。それが天候のような操作不可能なものであっても、それすらも左右される(左右することが許される)ほどの生前の行いがあり、そして結果としてのその理想的な葬式というものがあると。んなアホなって話だが、まあそれを操作したがる人の意志というものがあり、そしてそれに近づけていこうとする意志と努力などというものがあるとすればバカバカしく愚かしい話である。と個人的には思う。曹操なんて「オレが死んだと聞いたら孫権や劉備が攻めて来るだろうから葬式なんて役に立たんものはさっさと終わらせろ、なんならしなくていいから」的な話をしたそうであるが、個人的にはこれに共感する。


 ・ところで葬式を加点するそうした要素というものを考えてみるに、うららかな天候、春であること、ウグイスが鳴いていること、桜が満開で桜吹雪が時々舞っていることなどが挙げられるだろう。こうしたものが加点要素となり、そうしたものによって素晴らしい葬式が演出されることになる。それすなわち生前の行いが素晴らしいからこういう結果が用意されたのだとみなされる。
 ではその逆に減点する要素とは何であるかといえば、さくらんぼの木やイチジクやみかんの木などは実に許しがたい要素を持っていることに気付かされる。なぜって実に俗人的であり、まるで腹が減ったら満たさねば気が済まないかのようであり、食欲を表すものであり、それこそなんだ、死んでからも食欲を満たしたいのか、あの世に行ってからもみかんを食いたいのかいとその強欲っぷりを笑われるかのような要素を確かにもっていることに気付かされる。従って、そうしたものを一本たりとて庭に残しておくのは実に許しがたい、とこうなる。そういう意味では庭のよく目につくところにそうしたものを配置するというのはまるで切ってくださいといわんばかりである。切られる方は切られる方だが、切る方には切る側の理屈があり、そしてそれは実に表現し難いものである。恐らく切る方は当然のように切っているのだが、それを説明することは恐らく不可能だろう。従って「あれは枯れていたから切った」という理屈がその後に用意されただけの話である。


 ・ところで人が生きていくうえで何か重要って食糧である。これは不可避であり誰もが食べなければ生きていけない。
 つまり実が必要なのであるが、個人的にはつまり「実>花」だと思っているのだが、そうでない人もいるということでもある。つまり「実<花」ということだ。花は食べられないが、しかしそうしてかっこつけて生きていきたいのも人である。そして実を重視するといかにも俗っぽくなり、卑しさすらも感じるほどであるとなると、それなりに花を重視する生き方もあっていいとは思う。つまり卑しさと高尚、身も蓋もないのとかっこつけとの差異であり、つまりこれは爺さんと婆さんの生き方の差でもある。
 そう思ってみると、爺さんの生はまさに実を追求したような人生だった。徹底した実利主義であり、合理主義を追求しようとしていたし、それと対照的に婆さんの生はそれとのバランス感覚で、花を追求する人生だったのだろう。花を重視する、というその生きざまが毎日ものを食べているがために唱えられるという意味では本末転倒な話ではあるが、これにはこれなりの合理性があるのだ。


 ・爺さんの死の前後に孫の結婚話が上がったことがあったのだが、その時婆さんは全力で話を踏み潰したのをよく覚えている。いやそんな全力で怒らんでもというくらいヒステリックになって話を徹底的に潰したのだが、当人は20年経ってそのことは忘れているらしく、やれひ孫の顔が見たいだのそれっぽいことを言ってはいる。周りもこの婆さんがこんなヒステリックに言うってことは何かあるのだろうと加担していたのだが、こうして一過性の集団ヒステリー現象みたいなものが起きたことがあり、非常に気持ち悪いなと思ったものだったのだが。その矛盾の意味が分からなかったのだが、ふとなんとなくその謎が解けたような気がしたのだ。


 ひ孫なんて産まれた日には「あの婆さんひ孫が生まれるまで生きていたよ、そんな強欲なのかい、生にしがみついていたいのかい」などと言われるという事態を想定しひどく恐れているということ。そういう不安と恐怖がとてつもなく強いがために、つまり非常にしっかりしているがために、なんとしてもそうした可能性をことごとく潰さなくてはならないという義務感を感じているということ。何しろ実派ではなく花派であるので、そしてそうした役割としての人生が長かったがゆえにその役割から離れて考えることができないこと。
 その結果として自らの墓守は一体誰がやるのか?という奇妙な事態が生じているのだが、恐らくそこで笑われるという可能性については全然考えられていないということ。なぜなのかってその範囲は子孫繫栄、つまり実派の考えであり自分の守備範囲ではない、自分は実利主義とは一線を画しているがためにその範囲については考えることができない、考える余地がないということ。
 したがって、花派としては首尾一貫している通りに……つまりかっこつけたいがために、表ではひ孫について毎日言っている、ところが実際にそういう事態になると、全力でその可能性をひねりつぶすというとんでもない矛盾をもたらしているということ。そしてこれは恐らく絶対に説明しても治らんだろうなということ。


 そういうわけで、起きた顛末を少し聞いてその瞬間にこの20年間の謎が少し解けたような気がしたので書いてみたという話である。
 そして書いといてなんだが、オレには全く理解できない話だなと思ったというのも付け加えておくことにする(笑)これの究極系は殉死なので、その亜流としてのこれ、つまり自分一人の生死に他人を巻き添えにして少しでも犠牲を増やそうとするような思考を許容することはできないし非常に偏った思考だと思うばかりである。





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