この話妙に印象的だった。クマを育てていたら食べられた男性の話。
当然最初はかわいいと思ったろうし、そうして愛情を持ち、愛着を持ちながら育ててきたのだろう。そうして次第に大きくなっていき、凶暴性も増していくクマ。
そして最終的に男性は食べられてしまう。
しかしそれで終わりではない。人の味を覚えてしまったクマは近隣住民を襲撃しかねないので駆除される。男性のクマへの愛情が、そもそもその発端としての優しさが最終的に男性のみにとどまらずみんなに迷惑をかけることになった。迷惑で済めばいいけど大惨事を引き起こしかねない事態になったという話。
・かわいいものをかわいいと思うこと、そして可哀想にと思いかわいがることは決して悪いことではないはず。なんならそう思うこと自体は美徳というようなものであり、人の良さを表し、その人の優しさを表すものでもあるはず。これ自体人から非難されるようなものではない。ところが結果的には、最も最悪な部類の危機を招きかねない程の事態をもたらしたというわけだ。
まあ相手がクマだったから、これはかなり特殊なケースだとみることもできるだろうが、問題なのはその非の打ち所がなさそうに見える優しさこそがとてつもない規模での厄介さに繋がっているということ。これがわがままで自分勝手なわかりやすいろくでなしだったらこうはならなかった。ろくでなしなんだから最初からかわいがろうともしないだろうし、なんなら肉にして食っちまうぞおらあ!というようなものだったかもしれない。大体そういう人は周りから厄介がられるし警戒もされるのでなにかやらかしたとしても普段から周りが警戒していたりする。しかしこれが優しさという非の打ち所がなさそうなものになるとなかなか警戒しようったってそうはいかない。というより、「優しさを警戒する」というこの一文だけで何なら破綻しているような気さえしてくるし、支離滅裂な感じさえも伝わってくるほどである。しかし実際にはこの優しさという性質こそが最も厄介な事態を招き入れたのだ。
「羊が人を食う」じゃないが、クマをかわいがり、かわいがったすえに自身がクマに食われる結果を招く。だとすれば優しさってのは大なり小なり自分自身を対象に食わせる道なんだろうなと。その犠牲を厭わない。厭わないがゆえに無防備に自身をさらけ出し、食われるような隙を招く道なんだとすれば、この人の死ってのは皮肉にも優しさの象徴でもあるように思えたものだった。
まあ似たようなことはたくさんあるのだろう。例えば「子が親を食う」みたいな話。親というものの優しさというものはそういう形になるということ。
別に実際に食べる話ではないぞ。
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