成功と失敗






 人生の成功と失敗とは何か、なんて結論めいたことを口に出せるほど長く生きてないが、悲しいことにいろいろ人生経験は積んできてしまった気がするので結論の方向性ってのは大体わかる。

 ①成功
 これは普通に成功、それも大成功。経済的な成功もだし夢や希望もそう、人が羨むようなものが成功と解釈される。いわゆる典型的な前向きなもの。

 ②人を引きずり下ろすことに成功
 自分が成功するのは当然いいことだが、人を引きずりおろせば他人の足を引っ張ったことで自分が劣っていてもそうみられないようになる、という意味では成功。たびたび書いているがオレも相当手痛い目に遭っているが、その根本にあるものは何かっていうのはこれ。他人に助けられるのは成功だし、他人を騙すのも成功。他人の成長の阻害も成功であれば、他人の足を引っ張ることも成功。他人への寄生が成功というのは半分答えだが半分間違っている。
 というのは他人が伸び伸びと生きて成功したら自分にももしかしたら分け前や恩恵があるのかも、ということ以上にこれは重要な要素のようで、そういう具体的な分け前以上に、他人の足を露骨に引っ張り他人を自分以下の地位まで引きずり下ろせば溜飲が下がり、満足できるというもの。昨今起こる無敵の人事件なんかには顕著に見受けられる気もするが、幸せな人を引きずり下ろせばオレはみじめったらしくならない、従って迷惑かけて破壊してもOK、許されるというもの。
 他人を不幸にすればするほど自分がみじめったらしくならないという意味では全く前向きでも建設的でもないし、実利的でもない。自らの心の安定と平和のためなら当然他人は犠牲になっていいという心理であり、後ろ向きとも言い難いが、前向きでもない。強いて言えば保守的であり心の安寧と平和を求める心理。

 ③ざまあみろと言うことに成功
 これというのは長いこと我慢してやりたいこともできずに生きてきた人に見受けられる。
 自由に伸び伸びと生きている人間が許せない。自由気ままにやった人間が(例えばオレ)痛い目に遭って大失敗しているのをみるとどうしても「ざまあみろ!」と言いたい嬉しい欲求を抑えられない。その根底にあるのは、本来自由に生きられて様々な可能性があっただろうものをすべて潰してきたという損した気持ちと我慢が許せない気持ち、そして気ままに生きる人間が許せない気持ちがある。気の毒だったね、と言いかけるが、その言いかけることすらももったいないかのように言葉を惜しむようにざまあみろを言いたい。
 それを言える根拠というのは、自らの人生は失敗していないがために言えるのであって失敗していない自分は失敗している人間よりも上だという意識から言えているのだが、一つの人生として社交辞令でも気の毒であることを言う余裕すらなく、我慢できずただひたすらざまあみろを言いたい人生が果たしてどこまで失敗でないのかは疑問である。


 ・そういうわけで、①も②も見てきたし基本運が悪い人間なので努力はしてもチャンスをつかみそこなうことの多かった人間ではあるが(既出)、そして多分けっこうそんじゅそこらにない規模の失敗もしてきた人間だと思ってきたんだけど、なんというか③のことを考えると、落胆する以上に人生というものの機微について考えさせられることが多い。妙に頭が冷えるというか、冷静になると言うか、心が冷たくなるというか。
 本当の問題は、全然自由に生きてきてない(自由度0%だった)ということではないんじゃないかと思う。実態はともかく、意識としてオレは我慢を強いられてきた人間であり人生だった!こんちくしょう!という意識があって、それが大きくゆがませているのであって。それを見ていてオレはとてつもなく気の毒に思ったし、哀れに思えてきてしまった。


 一生をかけて残るものが、誇れるものが、オレは失敗していないんだという自信であり、そしてざまあみろ!という言葉になって表れる。これが結果なんだとすれば、本当の病巣というのは成功はおろか失敗一つしたことのない経験の貧しさ、経験の貧困にあるのであって、履歴書に一マスしか履歴がないという誇りであり、同時に広い世界を見たことがない一生というものを物語っていること、それそのものにあるように思ってしまう。


 そういうわけでオレが思ったのは、こういう人生でないだけオレはきっとまだ幸せなのかもしれないななどと。逆に勇気をもらった話。





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