例えば韓信の時代、前漢の時代はみんなが孫子を読むのが当たり前の時代だったということはちょくちょく書いている。孫子が当たり前ならば、水攻めは当然しないという裏をかいたのが韓信だったと考えるならば、このことは信長の場合にもあてはまると言える。当時は戦国の世であって、武士は当然戦争に長けている。武士がメインであって、人手が足りない時に農民にも加勢してもらうということはあるかもしれないが、あくまでメインは武士であるということには違いない。そうしたくくりの中で、農民出身の中にも優れた人間がいるということを見出せたのが信長だけであったとは考えにくいが、そこから積極的に優れた人間を採用していこうと思ったというのは信長の非凡なところでもあっただろう。逆に平凡どころか凡庸な人物であれば長くいようと先祖代々だろうと容赦なくクビを言い渡すのが信長でもあった。例えば佐久間信盛などはいい例である。
佐久間信盛
まああくまでこういう例もあるというわけで、基本的には武士は素晴らしいという価値観はあったろうし、武士の中でも何十年何代にもわたってやってる武士はより素晴らしいという常識はあったに違いない。その常識に逆らってリストラを始めたとなると、これは信長という人物が常識にとらわれていないことの一例であると言えるだろう。
この価値観の対極であるところにあるのが家康の価値観で、つまり長くやってる武家はそれだけ手放しで素晴らしいということになる。しかも300年続いてなおかつ家康のいたところの三河武士は中でも最も良い、とこうなる。譜代の臣である佐久間をクビにするというのは、それが仮に並外れて凡庸であったとしても、家康の価値観でいえば最も許しがたい事態であったに違いない。
常識であるところを突き詰めていくと、正々堂々という価値観に行き着く。味方は当然だが、敵であってもその常識の範疇で戦ってくれたら味方としては実にありがたいといえる。組みやすいことこの上ない。戦になった時には「敵ながらあっぱれ」とでも言っておけば、いい気になった敵はその範囲内で戦ってくれるだろうし、そういう期待の持てる敵というのは戦う時に実にありがたい存在だといえる。家康の目指した世界観というのはそういう統治のしやすさを目指しているといえる。
そういう意味では先の韓信もだが、秀吉も敵としてみると実にありがたくない相手である。水攻めに食糧攻めと明らかに正々堂々とは程遠い価値観で戦っている。つまりは卑怯ということになるが、秀吉からすれば卑怯であろうとも勝てばよいのであって罵られようとどうってことはなかったに違いない。これは韓信が「股夫(こふ、臆病で他人の股くぐりをしたことで名付けられた)」と言われることと似たものを持っていると言える。要は実のためならば名などどうでもよかったのだろう。これは信長も同様で、武田の騎馬隊に対して鉄砲3000挺用意して戦いに挑んだことも有名である(最近通説が変わったようで、長篠の戦いでは武田方も大量の鉄砲を用意していた説が最近上がっていた。さすがに鉄砲に対して突撃を繰り返す騎馬軍団では、これはもうあまりにも現実外れで並外れて愚か、というのではさすがにちょっとおかしいということなのだろう)。
・戦という問題があって、これに勝たなければならないという事情が組み合わさった場合、じゃあどうするかといえば本来は名など気にしていられない。卑怯と罵られようとも勝つ、勝って生き残るのが当然最高の結果である。武士はそうではなく名を惜しむので、卑怯者呼ばわりされたくない。従って突撃か自害以外に道がない。これはもう本人の問題であり、常識であり美意識であり「あっぱれ」の範囲内の話なのでここでそこまで問題にしようとは思わない。しかし武士としての生き方に従って国が滅んだときにいったい誰が責任を取れるのだろう。せいぜい自害して殉死して潔く死ぬのがせいぜいであるだろうが、しかしそもそも国のかじ取りを間違えていた人の責任は取れるものだろうか。「常識であり美意識であり正々堂々に従った結果だったんだから仕方ないよ」という意味では、責任を引き受けてくれるのはそれらの常識であり、本人にはない。食糧攻めされて「卑怯者め、武士道にも劣る畜生め」などと言っておけば事足りる。
これは昨日の鳥取城の話だが、草木を食らい、牛馬を食らい、人を食らう悲惨な有様であったと。武士であり戦いの専門家の決断の結果が一般人であり農民にも及んでいることがわかる。というわけでここに見受けられるのは正々堂々の武士の価値観と、なんでもありで名を捨てた秀吉の価値観との対立ということで。
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