正解と誤答






 ところでこうして書いている内容だが、個人的には正解を追っているつもりだが社会一般的には恐らく誤答となるものが多くあると思う。
 例えば以前のこころの話。


 殉死とセットになるのは憤死だ!ということで書いたわけだが、これをもしも中学や高校の国語の授業とかで言ったら当然0点だろうし、まあこの考えが点を取れるとか稼げる時というのは恐らく今後100年生きてもやってこないだろうなと思っている。まあそりゃそうで、それはもう妥当。というか高校国語なんてある意味「切り取り」が題材であり問題になっているわけで、今現に社会的に問題になっている「切り取り」問題の原点だともいえる。真実なんてのはどうでもいいから切り取られたものの中から正解を導き出せという。真実ではなく断片的な事実から導き出せることを探せなんだが、これが巡り巡って切り取り問題が起こっているってのは皮肉でもある。まあしかしその切り取りから何も導き出せないというのよりはマシではあるのだろう。


 ・そういうわけで1点でも多く点数を稼いでやろうというよりは、むしろ0点の答案を堂々と見せびらかすようなことを延々とやっているような気もしないではない。
 しかし点数に果たしてどの程度の意味があるのだろう。個人的には、この0点の先にあるある種の真実に興味がある。こころの真相は一体どうなのか、なんてどうでもいい事柄なわけだが、しかも点数を取ろうと思えばこういう内容はまさに「百害あって一利なし」といったところだが、もしもそれを突き詰めねば気が済まないような人生があったとすれば?まあ今現にそういう人生を歩んでいる気がするのだが(笑)まあこころなんて卒業してしまえばもう用なしで今後の人生一度も見ることもない代物であるという人もいるだろうし、そういう人は実際99%くらいそうなのだろう。そしてそれでいいのであれば、それはもう十分それでいいのだと思う。こころの問題なんて不必要ということだから。


 ・しかしそうでない人もいる。というよりそうでない境地になぜか迷い込む人がいる。それも一定数必ずそうした人が出てくる。しかもこれがそこそこ満足のいく結果に行き着かなければてこでも動かぬと言った人間であって、あるいは迷子でへとへとになって一歩も動けぬといった人種なような気もする。そういうもの、そういう問題、そういう人たちに役に立つのであれば、0点であろうと100点であろうと大した違いはないのではと思うし、むしろ点数に囚われないこれがむしろ本質の側なのではないかとも思うのだ。
 間違いなくそれは「正解」側ではない。それは正解ではありませんよと言われるだろうし、なんなら0点を付けられる側、あるいは付けられやすい側でもある。
 例えばオレが学生だった頃はテクスト論とか作者論なんかが盛んな時代だった。要するにその物自体、こころならこころ自体ではなく、夏目漱石がどうであるとかどういう背景がその当時あったのかということからその作品に迫ろうというものである。今でもよくある聖地巡り、あれがその名残でもある。そういうものを積み上げて「あれだよあれ」と言える側が勝つというような風潮があった。オレはそれに異常に反発していた。それは作品そのものに向き合えるだけの地力が欠けているがために起こる現象だと思っていたし、そもそもそういうものに向き合うだけの動機がないのであればそれに関わってはならないのだと思っていた。まあ今思えばそういうのがあった。正解を追い求めないことへの反発、あるいは「それは違うよ」と言われにくいことを手堅く求めることへの反発。


 ・まあ0点の答案を「どうだ!」と威張って生きれる人生がいいよねという話ですかね。





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