主観性と客観性2






 ということで痛みがわかるとかわからんとか、他人の痛みがわかるとかわからんなんてのの基本は何かって自らの痛みが基本であるということを書いた。
 では自らの痛みが分かれば他人の痛みがわかるのか、と言えばそうではない。ここが難しいところであって、経験したことがなければ他人がもがき苦しんでいても大変そうだなあとは思えるが、その痛みがどれほどのものかはわからない。骨折したことがあれば、ああ骨折痛いんだよなあ……となって自らも冷や汗をかき、痛いだろうががんばれよと思うこともできるとは考えられる。


 しかしじゃあ骨折してものすごく痛んだことがある人間がいるとして、例えば捻挫したとか足をひねった人間を見つけたとする。なんだ、どうした!?と駆けつけて話を聞いてみると、どうも足をひねったらしいと。なんだ、骨折じゃないのかと思う。だったらがんばって歩けよということも人にはできるのだ。


 ・この違いがないかって、所詮経験は経験でしかないということ。ある意味それは材料であって、その材料をじゃあどちらに使うか、強さの側に使うのか優しさの側に使うのかは全く異なるものであるということ。下手に経験したことがあるがために、腹痛ですと言ってなんだ腹痛くらい我慢しろと言って実は盲腸で危うく手遅れになるところだった、なんてケースは枚挙に暇がない。その元は何かって、腹痛は体験したことがあるが、腹痛は基本大したものじゃないという経験からくる判断と、そしてそれに基づく強さがある。その経験を共感の側へ、他者への優しさへと使うことを選ばない、なんなら拒絶する、拒絶するがゆえに他者へも我慢を求めるのだ。
 だから一言で言えば「経験」ではあってもそれがどう出るかはその人の意志によって全く異なる結果となる。強さを求め、共感を排除し、己も我慢してきたのだからお前も我慢しろというのか。あるいはもしや万が一を考え、自分の想定以上のことが起きているかもしれないと思い、共感性を、優しさを選ぶのか。その元は同じではあっても、出るところは180度異なるということを思ってみた話。





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