主観性と客観性






 これ昔からよくわからんのでたびたび考えてる。20年くらい。


 ・痛みがわかるということは主観的なことであると。つまり己の神経を通してじゃないとわからんというのがある。これがあるから、辛いことやきついことというのは「ああたいへんだったね」「辛かったね」などという言葉ができてくると考えると、その痛みと「≒」な痛みというものが自分の内にも大体は想像できる、つまり痛みが主観的に感じ取れるがゆえに相手を慮ることができると考えられる。そういう意味での共感性ってのはある。で、共感するとか共感できるということはその根っこは主観的なことであり、痛みがわかるがゆえに相手の痛みも推し量ることができると。


 ・と考えた時に、この図から最も離れたこととは何かって、客観的な痛みということになる。とはいっても骨折だとかやけどなんてのは見ればわかるわけで、いかにも痛々しいならみてるだけでその痛みもわかってくるということになる。となるとこれはかなりの部分主観的な範囲でカバーできるし、少なくとも自分の経験したあれ以上に痛かろうということで痛みを推し量ることになる。
 ところが精神的なものに関してはこれが全く通用しない。こうなると取れる選択肢は二つで、そんな痛みに負けるようなやつはヤワなやつだ、人間としてダメなやつだと言うか、もしくは客観的にそういう痛みはあるかもしれないけどとりあえずここは無視すると。精神科で前者のような態度をとるやつは論外だろうが、かといって後者ときたらどうなるか。
 「あまりにも精神的に辛くて眠れないんです」とくれば「あーたいへんですね、じゃ薬出しときます」となって睡眠薬が処方される。つまり「あまりにも精神的に辛くて」の部分は完全に消えてなくなり、「眠れないんです」となるがゆえにじゃあ睡眠薬出しとこうとなる。これはこれで理にかなってはいるわけだ。辛い→眠れない→肉体にも影響→肉体がへとへとで精神にも影響→ますます辛いというスパイラスに陥るなら、それを断ち切ることはできるわけでムダではない。しかし同時に、これは対処ではあっても解決ではないということも重要であるだろう。つまりこれは解決そのものを放棄するのとかなり近いといえるし、ある意味ではそれを諦めるが故の対処だともいえる。人が精神的に抱えている問題をじゃあどうするのが解決なのかといったら人それぞれゴールは異なるわけで、そんなものに最後までいちいち付き合えるかということでもある。
 これはこれで重要で、医療従事者がいちいち患者に感情移入して「ああお辛かったでしょうねえ」などと涙を流していたら恐らく持たない。それどころか診断の妨げともなりかねない。そういう感情移入はしない、極めて客観的に対処するということは必要な姿勢ではあるのだろう。


 ・先日たまたま見かけた寅さんで、200万円だまし取られた女の人が出ていたのだが訴えてやる、最後まで争ってやると泣いたり怒ったりしていた。みんなは困り果てていたのだが、じゃあオレ一緒にその社長さんところにお願いに行ってやるよというタコ社長。あるいはじゃあ知人に画家の先生がいるから寅さんが絵描いてもらおうと家へ行くと。「先生、ちょっと困ってる人がいるんでその人のために絵を描いてやってくれませんかね」みたいなこと言ってしまいにはケンカして家から出ていくのだが。そうするとその先生が絵を描いて、女の人にプレゼントするという話だった。


 その話の一体何が肝かって、200万円騙し取られた女の人はそりゃあ心が痛いわけだが、どんな手を使っても法的手段を取ろうとも向こうは万全の備えをしていて専門家も恐らくいるとなると勝ち目がない。それとは別に、この人は困っているぞと。何とかしてやれんもんだろうかと周りはいろいろ考える。そして自分にできる最大限のことをやろうとする。
 タコ社長は女の人に付き添ってその社長に直談判。寅さんは画家の先生に頼みに行って絵を描いてくれよと。それで200万円分何とかしてくれという。
 そういう背景があって画家の先生は絵を描く。そして女の人にその絵を渡す。
 女の人はその絵が貰えたことが嬉しいわけではないのだ。まして寅さんが考えたストーリー通りに「やった、これ売って200万円にあてれば損した分が帳消しになるわ」と言って喜んでいるわけではないのだ。その女の人にはわかるのだ。なぜ画家の先生が急に絵をもって現れたのか。きっと周囲の人たちがいろいろ気を使って気配りをし思いやりをした末に、それが結果となって表れてきたに違いない。結果だけをみてよっしゃこれ売って200万円ではあまりにも殺伐としすぎている。そうではなく、そこにある絵というものは様々な人の思いやりであり、なんとかしてやろうという気持ちの集まりであると。それが結果としてそこにあるということ。
 そして言うのだ。「この絵は200万円積まれても売らない。1000万円出されても売らない」


 ・みんながみんな200万円損しているから他人の痛みがわかるというわけではない。ただ騙し取られるということがどれだけ辛いかはみんなよくわかっている。わかるがゆえに動くと。これというのは明らかに主観的な話だといえる。そうなると、所詮事態は他人事であって200万円なんて取られたやつが悪い、自己責任だ、オレには関係ないってのが客観的な話だと言える。寅さんは画家の先生が乗り気にならないことに怒る。なぜ怒るのか。寅さんには先生の態度が他人事に映ったからである。いやいやそりゃ困ってる人がいるかもしれないけど、オレとは関係ないよと。オレは画家だぞと。なぜ画家がそういうことをしなけりゃならんのかとごねるのが寅さんの気に入らない。そうしてケンカをして出ていく。
 しかし実は先生はその裏で絵を描いていた。そうして絵を贈っていた。それを見せつけられた寅さんは手を合わせて詫びる。ああ、すまんこと言っちまった。堪忍してくれ、先生。
 というようなことをオレも見ながらものすごく癒されてしまったのだが、見ている誰もがなんか他人事感満載だったので、見てわかるにも経験と主観性は必要なんだろうなあと思った。思ったが、しかしそれでレベルが上がったところでじゃあなんだろうなと。人生経験は豊富になるだろうが擦れてろくな考え方できなくなり、マイナスな経験を振りかざして人生経験を語る程度なら、見てもああおもしろかった、ですっかり寅さんのことを忘れるような人生の方が人生充実しているんじゃなかろうか。


 などということをふと思ったという話。











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