水戸黄門と昔話的ロマン主義






 日本の不思議なところは神話、歴史的な流れといわゆる昔話が一致しない点にあると前に書いた気がする。中国では、例えば蛇足という話などはいろいろな事物から離れてあるわけではなくきちんと歴史の中に源流をたどることができたりする。
 陳軫が「蛇足」を昭陽に説く話

 ところが日本では金太郎の話が坂田金時に直結したようだが、そういう例の方が稀有であり滅多にそういう例は見られないということ。つまり言い換えると日本では中国に比べて昔話と歴史との間に妙に距離があるということができるだろう。


 ・そういう特徴の上で、例えば正直じいさんと意地悪じいさんといった謎の対比がある。正直と意地悪は釣り合っていないが、ここにはマスクデータであり裏条件的なものがあるという話を前回書いた気がする。
 ではこの話であり話し方の狙いが何かと言えば、我々は恐らく正直であること、そして寡欲であるというあくまでそうした前提での内心を明らかにしたうえで生きていれば必ずいいことが起こるという希望であり願望を知らず知らずのうちに抱かされているのではないかということではないかと私は指摘したい。正直じいさん側であること、あるいは少なくとも意地悪じいさん側でないことによって我々は己の位置を大体把握する。そしてそれが何かってよりよい未来に繋がるという願望を我々はこうした話によって刷り込まれているのではないか。そういう意味での昔話的な意味における現実の捉えなおし作業というのは恐らく我々の無意識下で行われている。ある意味そうした昔話ロマン主義を我々は潜在的に抱かされているのではないか。


 ・ところがそれだけではそううまくいかないということを敢えて指摘するのが水戸黄門である。水戸黄門なんてのはみなくても大体のあらましはわかるのだが、
 ①旅をする御隠居一行
 ②つつましく暮らしている町人がいる
 ③役人さんなどによって町人が無理難題を吹っ掛けられ、手も足も出なくなる
 ④謎の御隠居が現れていろいろ尽力するのだが、実は謎の御隠居は水戸光圀であることが最後に明かされる
 まあ大体こういった流れになる。


 この何が重要かって、我々が無意識に持っている昔話的ロマン主義はリアリズムによって危機を迎えさせられるということが重要だといえる。
 ああそうなんだよね、つつましくおとなしく真面目に暮らしていても、手の届かないような高位にある役人さんがこういうことをやってきたらもう手も足も出ないもんね。
 あるいはそうした負けを食らうと。ああそうだよね、理想はそうであっても現実は所詮こうなんだよね。そう思わされる。そういう屈従を余儀なくさせられる。これによって我々は知らず知らずのうちに持っていた昔話的ロマン主義が幻想であり、所詮地位と階級、現実の圧倒的な壁の前においては何もできない程度のものでしかないことを悟らされることになる。


 ところが起承転結のその結部分において奇跡が起きる。まさかあの謎の御隠居が水戸光圀公であろうとは。そんなこと起こるわけもないが、そういうことが現に起きていると。そしてお裁きが下り、不正をし私腹を肥やしていた役人連中は一層され平和が戻る。まあ毎度お決まりの決まりきった定型ではあるが、これが何を意味するかって、奇跡が起きることによって何が起きるかって我々の昔話的ロマン主義が復活するということ、その流れが敢えてこうして用意されているということである。役人の不正によって大きくぶらされた後に、また元の位置に戻るのだ。
 つまり言い換えればこれにはきちんとしたメッセージがあると。「天網恢恢疎にして漏らさず」あるいは「お天道様は見ている」そういった感じだろうか。きちんとやることをやっている人はきちんと見ている人がいて、そして最終的にはきちんとしたお裁きが下される。それはつまり、昔話的ロマン主義というものはやはり正しいということでもある。水戸黄門がなぜ人気があったか、そして何が見ている人の心を動かすかっていうところはつまりこういうところをきちんととらえているがためではないか。そういう意味での昔話的ロマン主義の危機からの回復というのが水戸黄門における独特のカタルシスに繋がるのだ。


 ・しかし問題なのは、この昔話的ロマン主義ってのは果たして本当にそこまで良いものなのだろうかということである。個人的に思うことは、それが良いものだという位置に収まってくれないと、困る人は確かにいるのではないかということである。というのはお役人みたいな不正の前には必ず町人は負けるわけで、結局じゃあみんなにこれを持ってもらわないと困るのは誰かって、不正をする人なんじゃないかと思った時に、実は水戸黄門を猛烈プッシュしていたのはじゃあ誰かって下手すると水戸黄門に出てくるお役人さんにあたる人々なんじゃないか(笑)ということを思ってみたわけである。その概念の形というのは町人側でもなく、水戸光圀側でもなく、実は役人さんであるのではないかというところに、水戸黄門の真のミソがあると言えるのではないだろうか。







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