自分の中でもこの話が煮詰まってないと思うのは、
①人助けに行く
②自分を踏み台にして助かる
③踏み台にされた自分は死亡
というこの流れが非常に違和感があるというかおかしいと思っているわけで。
ある人はこれを聞いて
・でも君は助けようと思っていったわけだし、その結果どんな助かり方をされようと結果的には助かったわけで、目的が達成されている以上そこに文句を言うのは筋違いじゃない?
ということを言っていたが、個人的に思うことは救助に行くことと死ぬことは別に同じではないし、救助に行くならば当然死ななければならないということは当然ないし、どういうことになろうとも受け入れろと言うことでも全くないのではないかと思うのだ。
ⅰ溺れた人を助けに行って救出
これは理想的なパターン
ⅱ溺れた人を助けに行ったが助けられなかった
これは実際にあるパターン
ⅲ溺れた人を救助に行って、行った者が死ぬパターン
これは意外と多いのだとか。というのは助けに行くくらいだからそれなりの水連達者の人物ということになるわけだが、溺れた人間は溺れているわけだから行動の制御ができない。そうなると、泳ぎがうまいというだけでは救助ができないということが起こると。泳ぐのが得意であってもそこで救助ができるだけのスキルがあるというのは全く別の話であり、従って得意な者ほどよく死ぬということは現に起こり得るという話。
ⅳ溺れた人を救助に行って、行った者が故意に殺されるパターン
うまい例が出てこないが、一本しかない酸素ボンベの吸入口があったとする。交互に使えば両方ともリスクはあるが助かる可能性はある。
しかし片方を突き落とせば、間違いなく自分は助かる。
それを説明を聞きつつ、納得した様子を見せつつ、分かったと言いつつも、いざとなればもう一人を突き落として酸素ボンベを自分だけが使ってやろうというような薄汚い魂胆、そういうものが許されてはならないのではないかと思うのだ。
そしてそのことについて、いやいや助けに行ったわけだからそういうことは起こるよ、というのはⅲとⅳを混同した物言いであり、よく似たように見えながらその内面は全く別物だということ。なぜ救いに行った人間が必ず死を覚悟しなければならないかとなるとおかしな話だし、まして必ず死を覚悟していくものだというのもおかしな話だし、踏み台にされても耐えろという話となるともう頓珍漢も甚だしい話だったのではないかと思う。
まあそういうわけで、そのヘタクソな理詰めが追い打ちとしてかなり精神に堪えたし、なんなら死んでいれば何ら問題にならなかった、みんな円満でいられたわけだよね、というのもたいそう堪えたものだった。
とはいえ思うことは、溺れる者は藁をも掴むではないが、溺れている状態の人間が助けに来た人間を引っ掴んで自らを助けようとする行為というのは基本的には幸運をつかむ行動なのだろうとは思うのだ。何しろ死にかけの人間が死ではなく生を掴むというわけだから。今現に取りついている死神を追っ払うような話で、もはやこれは藁どころの話ではない。これを強運といわずして何であるのかという話だし、その逆で助けに行った人間というのは代わりに死神を取り付けにいくようなものである。
今思うことは、人を助けるということはそういうことで、つまり本質的には人についた死神を自らにつけに行くようなお人よしな行為であると思うので、よほどの覚悟がなければやるべきではないと今となっては思う。古代中国にも似たような話があるが、昔の人も似たようなことを思ったのだろう。
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